投稿

7月, 2023の投稿を表示しています

2023年7月19日(旧暦六月二日) 水みなぎって舟あやうし 元禄二年六月三日(1689年7月19日)

イメージ
  「三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元合海。治良兵ヘ方ヘ甚兵ヘ方ヨリ状添ル。」甚兵ヘは渋谷甚兵衛風流のことです。 俳諧においては大石田の一栄や川水とのようにいかなかった新庄の風流ですが、元合海の船宿はじめ船番所の古口の船宿への「状」や出手形の手配など、できる限りの芭蕉の旅への便宜を図っていたようです。 おかげでいい天気の中、芭蕉はスムーズに最上川を下り、古口で船を乗り継ぎ仙人堂や白糸の滝を右に見ながら清川に向かいました。 「左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いなふねといふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎって舟あやうし。/ 五月雨をあつめて早し最上川*」おくのほそ道本文では、この日が何日であるか明記されていません。なお、実際は白糸の滝は仙人堂より川上にあり、芭蕉は逆転させて書いています。 ※写真上:復元された稲舟。芭蕉もこのような舟に乗りました。中:白糸の滝。下:羽黒山古道を登りきったところの霊祭殿卒塔婆群。中央の大きな卒塔婆列の左端の卒塔婆には「奉供養 渋谷家金貸した時代に泣かされた云々」と読めます。新庄の渋谷家との関係は不明です。 順調であった川下りも最終の清川の鶴岡藩の番所で紹介状なしでは上陸が許されず、一里半先のまで行き船を降りて、16時ごろ羽黒山手向荒町の近藤左吉(露丸)宅に到着しました。 芭蕉自筆本では「五月雨を」の句のあと改行し、「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に閲す**。」と記されています。句との間に時間差があるように感じられ「五月雨」に違和感を持たせない工夫かもしれません。 *本句については、7月15日の条を参照ください。 **実は会覚に謁見したのは翌日のことでした。

2023年7月18日(旧暦六月一日) 新庄の「風流」 元禄二年六月二日(1689年7月18日)

イメージ
 「おくのほそ道」には、新庄についての記述は一切ありません。 着いた翌日、芭蕉は風流の本家である渋谷盛信亭に招かれ、歌仙を巻きます。盛信亭は風流亭の斜め向かいにあり、新庄一の富豪でした。今は面影はありませんが、いずれも新庄市による「芭蕉遺跡」として亭跡を示す標柱が建てられています。 この歌仙には亭主の盛信は連座せず、どういう訳か風流の発句( 御尋ねに我宿せばし破れ蚊や )で巻かれます。この歌仙はあまりうまく運ばず、満尾はしたものの、そのあと仕切り直しかのように改めて芭蕉は、当主の息子である柳風と歌仙途中参加ながら連衆最多の六句を詠んだ木端とで、自らの「 風の香も南に近し最上川 」を発句に三ツ物を巻いています。この発句の句碑*は、盛信亭跡からすぐの新庄市民プラザの前庭にあります。 *句碑の説明板は、三つ物の後に「御尋ねに」歌仙が巻かれたとしています。もしそうなら木端が歌仙途中参加が不自然になりますし、歌仙が亭主でもなく宗匠でもない風流の、本家での席にも関わらず『我宿せばし」とした異例の発句で始められ(おそらく風流が金主だったのでしょうけど…)、第三を付けた孤松がその後一句しか詠んでなく、当主の息である柳風が第五句目、執筆が六句目を付けて頓挫したようなギクシャクした歌仙進行がいかにも解せません。私は、歌仙が先、三つ物が後、説明板の順序は逆だと思います。

2023年7月17日(旧暦五月三十日) 大石田を立 元禄二年六月一日(1689年7月17日)

イメージ
  芭蕉と曽良は、大石田から渋谷甚兵衛(風流)の招きで新庄に向かいます。 「大石田ヨリ出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。新庄ヨリ出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共に入ニハ不構。」(曽良旅日記) 羽州街道猿羽根(さばね)峠を挟んで番所があり、天領の尾花沢側の名木沢と新庄藩側の舟形にありました。 芭蕉は番所を無事通過、「柳の清水」の立ち寄り、新庄の風流宅に落ち着きます。 写真は「柳の清水跡」(新庄市金沢)です。

2023年7月16日(旧暦五月二十九日) このたびの風流、茲に至れり 元禄二年五月三十日(1689年7月16日)

イメージ
  「晦日 朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺へ被遊、帰、物ども被書。」と曾良旅日記にあります。この日は朝早くは曇っていたもののすぐに晴れたようで、昨日からの歌仙が曽良の「山田の種をいはふむらさめ」を揚句に満尾します。芭蕉は歌仙の出来に満足してか、興奮を鎮めるためか「其辺へ」散歩に出ます。そして一栄宅に戻り、歌仙の清書をし、「物ども」書き記しました。「最上川のほとり一栄子宅におゐて興行/芭蕉庵桃青書/元禄二年仲夏末」と署名する大石田伝来の「さみだれを」歌仙真蹟懐紙が残っています。 「爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといえども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、茲に至れり。」(「おくのほそ道」) 「このたびの風流」は、大石田での俳諧興行を指すと同時に、白河の関を越え須賀川での「風流の初や」からここまでの俳諧とこの「おくのほそ道」「旅」のすべての風流を指していると思います。

2023年7月15日(旧暦五月二十八日) あつめて涼し 元禄二年五月二十九日(1689年7月15日)

イメージ
次の日、芭蕉の「さみだれをあつめて涼し最上川」を発句に四吟歌仙を巻き始めました。船問屋である一栄宅は最上川のほとりにありましたので、亭主に対する型通りといえる挨拶句です。 どういう訳か、歌仙は一巡終えたところで中断、芭蕉は連衆の一栄と川水の二人を誘い、川向こうの黒滝山向川寺にお参りに出かけます。曽良は「予所労故」同行しません。突然の中断には少し違和感を覚えますが、曹洞宗中本山であった向川寺は立石寺と並び称されたともいわれているようですから、では一見と単に芭蕉が言い出しただけかもしれません。一巡して川水が「里をむかひに桑の細道」と詠んだところでもありましたので。また、尾花沢で「けふも座禅に登る石上」と詠んだことでもありますし。 向川寺は一栄宅より半里ほどの距離にあり、三人は道々詠み継ぎ、14時頃には戻り、曽良も復帰して歌仙を巻き続けたものと思われます。 「夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入、帰。」川水は大石田の大庄屋でありましたから、さぞ豪華なもてなしだったのでしょう。 なお、この歌仙の発句はのちに中七を「あつめて早し」と改められ、おくのほそ道の最上川を下った折の句として収録されます。実際は六月三日のことで五月ではなくなっていましたが…

2023年7月14日(旧暦五月二十七日) 労ニ依テ無俳 元禄二年五月二十八日(1689年7月14日)

イメージ
芭蕉一行は、天童まで馬で行き、午後2時くらいに大石田の最上川船役所近くの一栄宅に到着しました。ほぼ九里の道のりでした。山寺から天童まで馬を使ったとしても二里余りですから、かなりの健脚です。 しかし、さすがに「其夜、労ニ依テ無俳。休ス」と曽良旅日記にあります。 写真は、天童市の室町時代の「上荻野戸の板碑」、山寺から天童への古道に立っていたものです。案内板によりますと、右は立石寺の守護神、山寺21社内の一つ「悪王子宮(愛染明王)」と伝えられ、山寺院主が前を行く際には馬を下りお経を唱えてから通られたそうです。左は庚申塔として地元では古くから信仰されていたとのことです。 芭蕉一行もこの板碑の前では、実方の轍を踏むまいと下馬したに違いありません。

2023年7月13日(旧暦五月二十六日) まゆはきを俤に 元禄二年五月二十七日(1689年7月13日)

イメージ
「二十七日 天気能。辰ノ中剋、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。」(曽良「旅日記」) 十日間留まった尾花沢で皆に薦められ、芭蕉と曽良は山寺(立石寺)に向かいます。尾花沢より七里半ほどの距離で、途中の舘岡(今の山形県村山市楯岡)まで、清風の心遣いで馬で送られました。元禄二年五月二十七日(1689年7月13日)のことです。 途中、芭蕉はちょうど開花時期の紅花が黄色く咲いているのを見たのでしょう。一句詠んでいます。「立石の道にて  まゆはきを俤にして紅ノ花 」と曽良の「俳諧書留」ある句です。わたしは残念ながら蕾しか見ることができませんでした。 清風は紅や紅色染料となる紅花で財を成したといわれますが、冬雪が深い尾花沢周辺では紅花は栽培されず、少し南の村山地域が「最上紅花」の主な産地でした。紅花の色は主に黄で、紅色成分を抽出乾燥して固めたものを紅餅にして流通しました。「最上紅花」は上質で、金の10倍といわれるの程高価なブランド品でした。この「最上紅花」を一手に江戸や京・大坂へ供給していたのが、尾花沢の清風でした。なお、源氏物語の「末摘花」はこの紅花の別名です。 馬で到着した舘岡から山寺まで三里半、8時頃に尾花沢を出発した芭蕉は14時くらいに到着して、その日に山上・山下巡礼を済ませます。 山寺では、「おくのほそ道」では推敲されて 「閑さや岩にしみ入蝉の声 」となる「 山寺や石にしみつく蝉の声 」の句を詠みました。 芭蕉は、山寺から三里の距離にある山形まで行こうとしましたが、取りやめて山寺に泊まります。

2023年7月6日(旧暦五月十九日) さまざまにもてなし侍る 元禄二年五月二十日(1689年7月6日)

イメージ
「おくのほそ道」に清風のことを「かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。」とありますように、芭蕉は尾花沢で清風はじめ有力者にもてなされ長期滞在します。 尾花沢には、大石田の船問屋一栄(高野平右衛門)や同じく大石田の庄屋川水(高桑加助)等もやってきて親交を結びます。 二十日には二巻目の歌仙興行を行います。発句は清風 おきふ しの麻にあらはす子家かな   脇は芭蕉  狗ほえかゝる ゆふだちの蓑  でした。 曽良の旅日記に五月十四日と十七日に「野辺沢」の地名が出てきます。「延沢銀山」のことで、当時採掘量が大幅に減少、事故などもあり銀山経営は順調とはいえなかったようです。岩出山からの当初のコースでは銀山を通る予定でした。全くの憶測ですが、尾花沢滞在中に曽良は何らかの使命を持って銀山に行ったのではないかと思います。片道四里弱ですから、朝早く尾花沢を発てば昼過ぎには戻ってこれる距離です。

2023年7月3日(旧暦五月十六日) 涼しさを 元禄二年五月十七日(1689年7月3日)

イメージ
芭蕉は清風邸に到着した五月十七日早速歌仙を巻きます。清風は新庄から風流を呼ぶなど、この日の俳諧興行はおそらくだいぶ以前から決まっていたのではないでしょうか。 芭蕉が須賀川から江戸の杉風に出した四月二十六日付書簡に「(仙台)より秋田・庄内之方、いまだ心不定候。大かた六月初、加州へ付可申候。出羽清風も在所に居候よし、是にもしばし逗留可致候。」とありますように、清風とも連絡が取りあっていたようですし、その折に大石田や新庄の俳友の紹介も依頼していたのだと思います。 到着日について芭蕉は、五月中ごろ着き申すべく候とでも書き送ったところ、清風がでは十七日にと指定したのだと推測します。俳友を呼ぶ都合もあったでしょうが、それより十七日でなければならない理由が清風にありました。それは、清風が初めて芭蕉と一座したのが貞享二年六月二日(1685年7月3日)の江戸小石川屋敷での百韻興行でした。元禄二年五月十七日は西暦1689年7月3日で小石川の興行と同じ日に当たります。もちろん清風や芭蕉が西暦を知っていたわけはありません。じつは貞享二年の半夏生は五月晦日、元禄二年は五月十五日でしたので、どちらも半夏生の翌々日に当っていました。芭蕉も清風もこのことを知っていたと思います。 百韻興行の発句は、清風の「 涼しさの凝りくだくるか水車* 」で、その今日詠んだ芭蕉の発句は「 涼しさを我宿にしてねまる也 」です。「ねまる」はゆっくりする、くつろぐといった意味の方言で、地元の方の説明では寝る、横になるという意味はないとのことでした。 * 「出羽の芭蕉」(小柴健一著、出羽の豪商鈴木清風を顕彰する会発行)に、本句の「涼しさ」は「延宝三年五月談林始祖宗因が東下し、芭蕉同席の百韻俳席の発句宗因『いと涼しき大徳也けり法の水』に由来。」とあり、本句は単なる眼前句でなく、談林派清風が芭蕉の俳諧が談林を超え全国に広がりますかという問いかけだったとしています。

2023年7月3日(旧暦五月十六日) 木の下闇茂りあひて 元禄二年五月十七日(1689年7月3日)

イメージ
「あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越(こゆ)べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟(くっきゃう)の若者、反脇差をよこたえ、樫の棒を携て、我々が先に立て行。」 元禄二年五月十七日(1689年7月3日)、快晴となり堺田を発ちます。庄屋から道もはっきりしない「大山」を越えると聞かされて、「中山」越えでさえ難渋した芭蕉は恐れをなしたに違いありません。 「高山森々として一鳥声をきかず、木の下闇茂りあひて、夜行(ゆく)がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分(ふみわけふみわけ)、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して」山刀伐(なたぎり)峠*を越えました。 峠は一部ブナの原生林の間の旧道も残り、往年の雰囲気が維持されている「おくのほそ道」でも出色の山道でした。ほーほーとミミヅクの声をききましたけど。 曽良の旅日記では、堺田から一里半で新庄藩の笹森関があり、そこから三里余りに最上代官所の関があって、「昼過、清風へ着」と、道中の難儀さには触れられていず、関(番所)もスムーズに通過できたようです。尾花沢は幕府直轄地で代官所がおかれていました。その関は「百姓番也。関ナニトヤラ云村也。」と書かれていますが、関谷という村にありました。 堺田から尾花沢清風邸まで七里程ありますから、そこを昼過ぎに到着したということは、おくのほそ道本文にあるほど厳しい道中ではなかったようです。もっとも尾花沢から二里半の関谷に、清風の使いが馬を用意して出迎えに来ていたそうです。 *山刀伐(なたぎり)峠は、ナタで伐採しながらでないと進むことができないタイヘンな峠といった意味合いで名づけられたのではと思っていましたが、「なたぎり」という山作業の際に頭を保護するガマで作ったヘルメットのような被り物に、峠の形が似ているところからきているそうです。 左の写真が「なたぎり」です。わかりにくくて申し訳ないのですけど、下を前に、上が頭のうしろになるようにして被ります。横からその形を見れば、ひらがなの「つ」のように尾花沢側(前)からはなだらかで、最上側(後)は急坂な峠の形に似ているのでとのことです。なお、二つ目玉のようなものは、日除けカバー様の布が付いて頭の後ろと首を守っており、その布を止付け部です。

2023年7月2日(旧暦五月十五日) 分水嶺 元禄二年五月十六日(1689年7月2日)

イメージ
  「堺田」は出羽と陸奥の境に位置することからきている地名ですが、JR東日本の東陸羽線の堺田駅は、太平洋と日本海の分水嶺にありますので、言うなれば太平洋と日本海の境でもあります。 小川を流れてきた水が駅前で左右に分かれています。東 (写真では右側) に行く水は、やがて北上川となり芭蕉が五日前に発った石巻から太平洋に注ぎます。一方、西 (写真では左側) に行った水は、最上川をたぎらせ、芭蕉が訪れる酒田の港から日本海に入ります。 もし芭蕉が知ったら、喜んでくれたでしょう…

2023年7月2日(旧暦五月十五日) 馬が尿する 元禄二年五月十六日(1689年7月2日)

イメージ
十五日、やっとのことで尿前の関所を通過した芭蕉は、出羽街道の中山越えに掛かります。小深沢、大深沢などのいくつもの深い谷と山を上り下りしなければならない難所です。今も山道がわりと良く残っていますので、当時の雰囲気を味わうことが出します。 「大山をのぼって日既暮ければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。」芭蕉は、新庄藩堺田の庄屋の家に泊まりました。 芭蕉は「大山」と書いていますが、この日越えたのは「中山」です。曽良は「堺田 出羽新庄藩領也。中山ヨリ入口五、六丁先ニ堺杭有」と旅日記に記しています。 「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」とありますように、十六日も一日堺田に留まっています。この時のことを詠んだ句が、「 蚤虱馬が尿(しと)する枕もと 」です。 藩の役人も兼ねる庄屋の家ですから、貧家のように蚤虱ということはなかったと思います。この家は今も堺田に現存、旧有路家住宅として重要文化財に指定されて公開されています。芭蕉が泊ったであろう部屋も土間に面する馬小屋も残っています。 武士や身分ある人も泊まりますから、床の間付の座敷などもあります。もっとも、芭蕉は一介の俳諧宗匠でしかありませんから、一般の部屋に泊まったと思われます。その部屋には天井板はなく、大きな茅葺屋根を支える小屋組みが露出しています。 左の写真は、寝床から芭蕉が見た景色です。昨日、芭蕉より少し早く封人の家の到着したわたしも見上げてみました。 たぶん、照明以外は334年前とほとんど同じだと思います。

2023年7月1日(旧暦五月十四日) 関守にあやしめられて 元禄二年五月十五日(1689年7月1日)

イメージ
  芭蕉一行は、岩出山から出羽街道を仙台方面にとり、現在の加美町小野田で旧最上街道へ入り、門沢、漆沢から軽井沢峠を越えて出羽に出るつもりでした。ところが、この「道遠ク、難所有之由故、道ヲカエテ」、尿前から出羽街道中山越えで出羽に向かうことになりました。 どちらの道も岩出山から尾花沢までの距離は十五里ほどで変わりませんが、旧最上街道軽井沢越えの方は少し高い山々を越えますから、難所が多いのでというのはわかります。しかし、昨日寄り道して見物するはずのところ見逃してしまった、小黒崎を芭蕉がどうしても見たいと言ったのかもしれませんし、最上街道の関所が厳しいとの情報が入って急遽変更したのかもしれません。芭蕉と曽良は「出手形」を持っていませんでした。 「漸(やうやう)として関をこす。」

2023年6月30日(旧暦五月十三日) 岩出山 元禄二年五月十四日(1689年6月30日)

イメージ
  「岩出の里に泊る」と本文にありますように、一ノ関を発った芭蕉一行は、伊達政宗が天正十九(1591)年米沢から居城を移した地である岩出山で一泊します。十四日のことです。 政宗は慶長八(1603)年仙台城に移りますが、岩出山は代々岩出山伊達家が治めました。有備館の主屋は、延宝五(1677)年二代伊達宗敏の隠居所として、建てられた建物と伝えられるものだそうです。もしそうなら、芭蕉が訪れた時に存在していたことになります。 岩出山城跡の周辺には、古い建物も一部残って雰囲気を保っています。芭蕉の宿泊した宿は、現在の岩出山交番が建っている辺りだったそうです。 左の写真は、岩出山城に隣接する古い醤油醸造所です。この醸造所の隣は森泉という造り酒屋です。 芭蕉一行はこの日で仙台領での宿泊が終わり、明日尿前の関から仙台藩を「脱出」することとなります。

2023年6月29日(旧暦五月十二日) 降のこしてや 元禄二年五月十三日(1689年6月29日)

イメージ
「光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉(とぼそ)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪に朽て、既退廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌(しのぐ)。暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。」  五月雨の降のこしてや光堂 光堂には三代の棺だけではなく、秀衡の遺言に背き義経を自害に追いやった四代泰衡の首級も収められていました。今その首桶を見ることができますが、芭蕉の時代には秘されていたかもしれません。 光堂は屋根瓦も木造で作られ、おそらく金箔が施されていました。そのようなこともあり新築後間もなく覆い屋根が懸けられ、それが覆堂に発展しました。 芭蕉が訪れた時の覆堂は、現在旧覆堂として残され、芭蕉の彫像がそれを眺めています。左の写真です。 「申ノ上剋帰ル。主、水風呂ヲシテ待。宿ス。」と、芭蕉と曽良は一ノ関の宿に15時過ぎには戻りました。 わたしは雨の為、帰りはJRのお世話になり、15時半には一ノ関に戻り宿のチェックインしました。歩いて2時間、電車9分。

2023年6月29日(旧暦五月十二日) 夢の跡 元禄二年五月十三日(1689年6月29日)

イメージ
  「戸伊摩(といま)と云所に一宿して、平泉に至る。其間二十余里ほどゝおぼゆ。」本文では、十三日朝、石巻を出て途中戸伊摩(今の登米とよま)に一泊、十四日に平泉に到着となっていますので、見物は十五日のことのように読み取れます。 実際は、十一日に石巻を発ち、戸伊摩ではあらかじめ決めたあったらしい宿には何らかの事情で泊まらず、検断屋敷に泊り、翌十二日合羽も通るほどの雨の中夕方一関に着きます。そして「十三日、天気明。巳ノ剋ヨリ平泉ヘ趣。」と旅日記に有りますので、平泉見物は十三日のことでした。 わたしは早朝に石巻を出発、道中をJRにてショートカットして、9時前一関から平泉に向かいました。天気は残念ながら雨。 「先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。(略)偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。」 義経は文治五年(1189)閏四月三十日この地で妻子共々自害したと伝えられます。義経像の視線の先には、五月雨に煙る観音岳がありました。

2023年6月26日(旧暦五月九日) 更に宿かすなし 元禄二年五月十日(1689年6月26日)

イメージ
「小野と石ノ巻ノ間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不予(あたへず)。」と曾良旅日記にあります。 芭蕉は石巻に着き、「思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(やうやう)まどしき小家に一夜をあかして、明くれば又知らぬ道まよひ行く。」 実際は矢本で出会った根古村のコンノ源太左衛門と名乗る侍の知人宅で湯を分けてもらい、石巻の宿もこの侍の紹介で、新田町の四兵へという旅籠屋に泊まっています。よそ者には厳しい土地柄だったのかもしれません。 芭蕉は日和山の上り、石巻の町や島々などの遠望を愉しみ、宿への帰りに義経ゆかりの袖の渡りなどを見物しました。 「数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つづけたり。」という石巻は、津波の為、殊に海川沿いはすっかり変わりましたが、芭蕉も食べたでありましょう肴は変わらず新鮮で美味しく、わたしも旧新田町に宿を取り、いただくことができました。 日和山の麓に残された門脇小学校旧校舎を眼前にして ただ、ただ 泪が止まりませんでした…

2023年6月26日(旧暦五月九日) 松島立 元禄二年五月十日(1689年6月26日)

イメージ
松島を出て高城の近くの山道でホトトギスが鳴きました。 松島から中小の峠を五つばかり越えると鳴瀬・小野に出ます。この道中は海もほとんど見えないまるで山の中のような道ですから、当時は「人跡稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往かふ道もそこともわかず」といった雰囲気もあったかもしれません。しかし12,3㎞で鳴瀬に出ますと視界が開け、遠くに金華山なども見えて、迷うようなことはないと思います。 左の写真の上下を見比べてください。 芭蕉は、「十二日、平和泉と心ざし、あねはの松(現栗原市金成梨崎南沢)・緒だえの橋(現大崎市古川三日町)など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道もそこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。」と書いていますが、松島から高城川に沿って北上すれば古川、栗原、一関、平泉方面、北上せずに東に渡れば石巻方面ですから、「終に路ふみたがへて」ということはあり得ません。 曽良旅日記には「十日 快晴 松島立。馬次、高城村、小野、石巻、仙台ヨリ十三里余。」と記していますので、芭蕉と曽良は初めから石巻に向かっていました。

2023年6月25日(旧暦五月八日) 松島にわたる 元禄二年五月九日(1689年6月25日)

イメージ
  「日既午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。」と本文にありますように、いよいよこの日芭蕉は待望の松島に入りました。 曽良旅日記には「千賀ノ浦・籬島・都島等所々見テ、午ノ刻松島ニ着船。」と昼に着いたようです。そして「茶ナド呑テ瑞巌寺詣、不残見物。」とあり、「ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所々見ル(とみ山モ見ユル)。御島、雲居ノ座禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰テ後、八幡社・五大堂ヲ見。慈覚ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。」とありますように、芭蕉はこの日の午後瑞巌寺、雄島、五大堂その他松島を残らず見物してしまいます。たしかに時間的には十分可能な行程ですが、「松島の月先心にかゝりて」と出発前から心待ちにしていた松島にしては、あまりにもそそくさとした行動だと不思議に感じます。 ただ、おくのほそ道の本文には九日午後半日のことを、十日松島、十一日瑞巌寺と引き延ばして芭蕉は書いています。

2023年6月25日(旧暦五月八日) 神前に古き宝燈有 元禄二年五月九日(1689年6月25日)

イメージ
「早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仭に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。」 曽良旅日記には「九日 快晴。辰ノ剋、塩竃明神ヲ拝。」とあり、「法蓮寺門前」の宿に泊まっていた芭蕉は、7時ごろに参詣しました。法蓮寺は塩竃寺ともいわれる神社の別当寺で、裏参道入口辺りから森山中腹にかけて多くの堂塔が威容を誇っていたそうです。当時の裏参道は、現在の東参道(裏坂)ではなく、七曲坂と呼ばれる古い坂の方だと思います。 「神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、『文治三年和泉三郎寄進』と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そぞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝のの士也。佳名今に至りて、したはずといふ事なし。誠『人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ』と云り。」 和泉三郎は藤原秀衡の三男忠衡、宝燈の銘には「奉寄進 / 文治三年七月十日 和泉三郎忠衡敬白」とあります。秀衡はこの年十月に亡くなります。その時には源義経は平泉にいましたから、この宝燈寄進の頃平泉に逃げ延びていたかもしれません。そして父秀衡の遺言に背いた泰衡のために義経は文治五年閏4月衣河の館で自害、六月和泉三郎忠衡も兄泰衡に討たれます。

2023年6月24日(旧暦五月七日) 塩がまの浦に入相のかね 元禄二年五月八日(1689年6月24日)

イメージ
  「未ノ剋、塩竃に着、湯漬など喰。」と曾良の旅日記にあります。壺の碑(多賀城碑)から塩釜まで一里足らずです。2時くらいに着き一休みしてから、末の松山、野田の玉川や浮島など「見廻リ帰」と旅日記ではなっていますが、疑問です。浮島は碑から塩釜に向かい700mくらいのところですし、塩釜から末の松山まで一里くらいあり、塩釜に向かい途中に見巡っていくのが普通のように思いますので解せません。碑~浮島~末の松山・興井~野田の玉川・おもはくの橋~塩釜のコースでほぼ二里です。 本文では「それ(壺の碑のこと)より野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終にはかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。」と、芭蕉は書いています。 また、「蜑の小舟こぎ連れて、肴わかつ声々に、『つなでかなしも』とよみけん心もしられて、いとど哀也。其夜盲目(めくら)法師の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。」 「宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。」と旅日記。裏参道の入口辺りにあった宿で、芭蕉は入相の鐘と奥上るりを聞きました。 、

2023年6月24日(旧暦五月七日) 市川村多賀城に有 元禄二年五月八日(1689年6月24日)

イメージ
岩切の「おくの細道」から塩釜に向かい一里余り、多賀城跡から奈良時代の石碑が、芭蕉が訪れる数十年前に発掘されていました。 「つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計歟。 苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。『此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣朝獦修造而。十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。(略) 爰に至りて疑なき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」 神亀元年は724年、天平宝字六年は762年*にあたります。朝獦は恵美押勝(藤原仲麻呂)の子です。 現在、「壺の碑」の横では、多賀城南門の復元工事が行われており、 多賀城創設1300年にあたる2024年に竣工予定とのことですが、現在南門自体の外観はほぼ完成しているように見えました。 なお、芭蕉は「壺の碑 市川村多賀城に有」と一行表題のようにおくのほそ道本文に書いています。当時「尾上多賀之丞**」という役者がいたとか、いなかったとか… *聖武天皇の在位は724年~749年でしたので、天平宝字六年は恵美押勝が後押しする淳仁天皇の時代でした。淳仁天皇は日本書紀編纂の舎人親王の子で、皇后は押勝の長男の未亡人でした。聖武天皇退位後、押勝は叔母であり聖武天皇妃であった光明皇太后を後ろ盾に権勢を振るっていましたが、天平宝字四年の皇太后の死に続き対抗勢力である孝謙上皇が道鏡と結びついたことが相まって、勢力争いが激化しつつありました。ついに天平宝字八年押勝は敗死、天皇は廃位淡路に流刑となり皇統から抹殺されます。その結果、明治になって淳仁天皇と諡号されるまで名前がありませんでしたので、芭蕉の時代は誰が天皇位にあったか不明だったものと思われます。 **歌舞伎俳優の名跡、三代目 尾上多賀之丞は昭和の名優で1968年人間国宝に認定されています。

2023年6月24日(旧暦五月七日) おくの細道 元禄二年五月八日(1689年6月24日)

イメージ
  「おくの細道の山際に十符の菅有」 「奥の細道*と称する道はこの国の方々に昔からあった。(略) 伊達氏の居城が仙台になってからは、仙台から塩釜に行く道をいった。元禄頃には岩切東光寺の前辺にその名称が残っていた。(唐橋吉二「評釈奥の細道」好学社)  四代藩主綱村の支援もあって、仙台周辺の名所、歌枕など旧跡を調査、復興していた大淀三千風らにより「岩切の東光寺付近の七北田川(冠川)ぞいの道と設定されていた。」(萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」岩波文庫) 現在岩切の曹洞宗本松山東光寺門前に「おくのほそ道」の標石が立っていますが、芭蕉が通ったおくの細道はこの辺りだったのでしょう。ここから数百メートル仙台側に「十符の菅」、「十符の池」跡があったようで、綱村は名所が荒廃しないように菅守を置き保護したそうです。 八日朝9時くらいに国分町を出発した芭蕉らは、二里半ほどの道のりですから、昼前にはこの辺りだったでしょう。左の写真は、「十符の菅」跡辺りの山際の道です。 東光寺前の「おくのほそ道」には残念ながら何の感興も湧きませんが、同寺奥の崖に残る岩窟仏は摩耗が激しいものの一見の価値のあるものでした。 芭蕉も思わず手を合わせたかもしれません。 *「おくのほそみち」の表記について、芭蕉は自筆本本文に「おくの細道」と書いており、本来共紙表紙であった内題にも「おくの細道」とありますので、書名はここ岩切の道名から採ったものと思われます。ただ、最終的に芭蕉が題簽には「おくのほそ道」と表記しましたので、特定の名所の名前から少し距離を持たせたかったのかもしれません。元禄十五年初板の表題も「おくのほそ道」となっています。芭蕉自身が「奥の細道」と漢字表記した例はないようです。