2023年7月3日(旧暦五月十六日) 木の下闇茂りあひて 元禄二年五月十七日(1689年7月3日)

「あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越(こゆ)べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟(くっきゃう)の若者、反脇差をよこたえ、樫の棒を携て、我々が先に立て行。」

元禄二年五月十七日(1689年7月3日)、快晴となり堺田を発ちます。庄屋から道もはっきりしない「大山」を越えると聞かされて、「中山」越えでさえ難渋した芭蕉は恐れをなしたに違いありません。

「高山森々として一鳥声をきかず、木の下闇茂りあひて、夜行(ゆく)がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分(ふみわけふみわけ)、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して」山刀伐(なたぎり)峠*を越えました。

峠は一部ブナの原生林の間の旧道も残り、往年の雰囲気が維持されている「おくのほそ道」でも出色の山道でした。ほーほーとミミヅクの声をききましたけど。

曽良の旅日記では、堺田から一里半で新庄藩の笹森関があり、そこから三里余りに最上代官所の関があって、「昼過、清風へ着」と、道中の難儀さには触れられていず、関(番所)もスムーズに通過できたようです。尾花沢は幕府直轄地で代官所がおかれていました。その関は「百姓番也。関ナニトヤラ云村也。」と書かれていますが、関谷という村にありました。

堺田から尾花沢清風邸まで七里程ありますから、そこを昼過ぎに到着したということは、おくのほそ道本文にあるほど厳しい道中ではなかったようです。もっとも尾花沢から二里半の関谷に、清風の使いが馬を用意して出迎えに来ていたそうです。

*山刀伐(なたぎり)峠は、ナタで伐採しながらでないと進むことができないタイヘンな峠といった意味合いで名づけられたのではと思っていましたが、「なたぎり」という山作業の際に頭を保護するガマで作ったヘルメットのような被り物に、峠の形が似ているところからきているそうです。

左の写真が「なたぎり」です。わかりにくくて申し訳ないのですけど、下を前に、上が頭のうしろになるようにして被ります。横からその形を見れば、ひらがなの「つ」のように尾花沢側(前)からはなだらかで、最上側(後)は急坂な峠の形に似ているのでとのことです。なお、二つ目玉のようなものは、日除けカバー様の布が付いて頭の後ろと首を守っており、その布を止付け部です。

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