2023年10月27日(旧暦九月十三日) 一栄に逢ふ 元禄二年九月十五日(1689年10月27日)

 

前日より「悪寒」を訴え、この日朝早く逗留していた島崎又玄味右衛門宅を発ち長島に戻ることになった曽良を、芭蕉と路通は途中まで見送りました。(左写真は外宮の宮町に現存する旧御師丸岡宗太夫邸)

「十五日 卯ノ刻味右衛門宅ヲ立、翁路通中ノ郷迄被送」と曽良は日記に残しています。続けて「高野一栄道ニテ逢フ小幡ニ至テ朝飯ス」とあり、なんとあの出羽の国最上川の船問屋で、おくのほそ道の旅で彼の邸に3泊「五月雨を集めて」の歌仙を巻いた大石田の一栄*に遭遇したと書いています。 

あまり驚いているようには感じられませんので、一栄が御遷宮に合わせて伊勢に来ていたことを知っていたのでしょう。とすれば、芭蕉が木因に書き送った「拙者門人供十人計り参詣」の一員に一栄もいたのです。一栄は曽良からの連絡に応じ、芭蕉を慕って遥々出羽の国からやってきたのかもしれません。このようなこともあり、最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。」と芭蕉をして書かしめたのです。

*7月15、16日の項ご覧ください。 なお、山寺から引き返した芭蕉と曽良を大石田入口で出迎えたのは五十四歳の一栄でした。今にも雨が降りそうな「重く垂れ下がった空を見上げながら、ずっとここで待ち続けていたようだ。この初老の俳人がどんなに芭蕉を待ち望んでいたか、その気持ちは芭蕉にも伝わったことだろう。」(金森敦子「『曽良旅日記』を読む」)

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