2023年6月24日(旧暦五月七日) おくの細道 元禄二年五月八日(1689年6月24日)

 

「おくの細道の山際に十符の菅有」

「奥の細道*と称する道はこの国の方々に昔からあった。(略) 伊達氏の居城が仙台になってからは、仙台から塩釜に行く道をいった。元禄頃には岩切東光寺の前辺にその名称が残っていた。(唐橋吉二「評釈奥の細道」好学社) 

四代藩主綱村の支援もあって、仙台周辺の名所、歌枕など旧跡を調査、復興していた大淀三千風らにより「岩切の東光寺付近の七北田川(冠川)ぞいの道と設定されていた。」(萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」岩波文庫)

現在岩切の曹洞宗本松山東光寺門前に「おくのほそ道」の標石が立っていますが、芭蕉が通ったおくの細道はこの辺りだったのでしょう。ここから数百メートル仙台側に「十符の菅」、「十符の池」跡があったようで、綱村は名所が荒廃しないように菅守を置き保護したそうです。

八日朝9時くらいに国分町を出発した芭蕉らは、二里半ほどの道のりですから、昼前にはこの辺りだったでしょう。左の写真は、「十符の菅」跡辺りの山際の道です。

東光寺前の「おくのほそ道」には残念ながら何の感興も湧きませんが、同寺奥の崖に残る岩窟仏は摩耗が激しいものの一見の価値のあるものでした。

芭蕉も思わず手を合わせたかもしれません。

*「おくのほそみち」の表記について、芭蕉は自筆本本文に「おくの細道」と書いており、本来共紙表紙であった内題にも「おくの細道」とありますので、書名はここ岩切の道名から採ったものと思われます。ただ、最終的に芭蕉が題簽には「おくのほそ道」と表記しましたので、特定の名所の名前から少し距離を持たせたかったのかもしれません。元禄十五年初板の表題も「おくのほそ道」となっています。芭蕉自身が「奥の細道」と漢字表記した例はないようです。

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