2023年7月19日(旧暦六月二日) 水みなぎって舟あやうし 元禄二年六月三日(1689年7月19日)

 

「三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元合海。治良兵ヘ方ヘ甚兵ヘ方ヨリ状添ル。」甚兵ヘは渋谷甚兵衛風流のことです。

俳諧においては大石田の一栄や川水とのようにいかなかった新庄の風流ですが、元合海の船宿はじめ船番所の古口の船宿への「状」や出手形の手配など、できる限りの芭蕉の旅への便宜を図っていたようです。

おかげでいい天気の中、芭蕉はスムーズに最上川を下り、古口で船を乗り継ぎ仙人堂や白糸の滝を右に見ながら清川に向かいました。

「左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いなふねといふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎって舟あやうし。/ 五月雨をあつめて早し最上川*」おくのほそ道本文では、この日が何日であるか明記されていません。なお、実際は白糸の滝は仙人堂より川上にあり、芭蕉は逆転させて書いています。

※写真上:復元された稲舟。芭蕉もこのような舟に乗りました。中:白糸の滝。下:羽黒山古道を登りきったところの霊祭殿卒塔婆群。中央の大きな卒塔婆列の左端の卒塔婆には「奉供養 渋谷家金貸した時代に泣かされた云々」と読めます。新庄の渋谷家との関係は不明です。

順調であった川下りも最終の清川の鶴岡藩の番所で紹介状なしでは上陸が許されず、一里半先のまで行き船を降りて、16時ごろ羽黒山手向荒町の近藤左吉(露丸)宅に到着しました。

芭蕉自筆本では「五月雨を」の句のあと改行し、「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に閲す**。」と記されています。句との間に時間差があるように感じられ「五月雨」に違和感を持たせない工夫かもしれません。

*本句については、7月15日の条を参照ください。 **実は会覚に謁見したのは翌日のことでした。


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