2023年6月24日(旧暦五月七日) 市川村多賀城に有 元禄二年五月八日(1689年6月24日)
岩切の「おくの細道」から塩釜に向かい一里余り、多賀城跡から奈良時代の石碑が、芭蕉が訪れる数十年前に発掘されていました。
「つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計歟。 苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。『此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣朝獦修造而。十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。(略) 爰に至りて疑なき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」
神亀元年は724年、天平宝字六年は762年*にあたります。朝獦は恵美押勝(藤原仲麻呂)の子です。
現在、「壺の碑」の横では、多賀城南門の復元工事が行われており、多賀城創設1300年にあたる2024年に竣工予定とのことですが、現在南門自体の外観はほぼ完成しているように見えました。
なお、芭蕉は「壺の碑 市川村多賀城に有」と一行表題のようにおくのほそ道本文に書いています。当時「尾上多賀之丞**」という役者がいたとか、いなかったとか…
*聖武天皇の在位は724年~749年でしたので、天平宝字六年は恵美押勝が後押しする淳仁天皇の時代でした。淳仁天皇は日本書紀編纂の舎人親王の子で、皇后は押勝の長男の未亡人でした。聖武天皇退位後、押勝は叔母であり聖武天皇妃であった光明皇太后を後ろ盾に権勢を振るっていましたが、天平宝字四年の皇太后の死に続き対抗勢力である孝謙上皇が道鏡と結びついたことが相まって、勢力争いが激化しつつありました。ついに天平宝字八年押勝は敗死、天皇は廃位淡路に流刑となり皇統から抹殺されます。その結果、明治になって淳仁天皇と諡号されるまで名前がありませんでしたので、芭蕉の時代は誰が天皇位にあったか不明だったものと思われます。
**歌舞伎俳優の名跡、三代目尾上多賀之丞は昭和の名優で1968年人間国宝に認定されています。
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