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2023年9月20日(旧暦八月六日) 終宵秋風を聞く 元禄二年八月七日(1689年9月20日)

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「大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曽良も前の夜、此寺に泊て、/ 終宵(よもすがら)秋風聞くやうらの山 / と残す。」(おくのほそ道) 五日に那谷寺を経由して小松に戻った芭蕉の、その後の日程についてははっきりとはわかりません。おくのほそ道本文の記述を前提にすることとします。曽良が全昌寺を発ったのが七日でしたから、上記より芭蕉は八日に宿泊したことになります。 「一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴って食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、(略) / 庭掃て出でばや寺に散柳 / とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。」  写真上:全昌寺境内から「うらの山」を望む 左:復元(?)した芭蕉が宿泊した部屋 「一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴って食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、(略) / 庭掃て出でばや寺に散柳 / とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。」 写真左:芭蕉塚と句碑がある全昌寺の柳

2023年9月20日(旧暦八月六日) 曽良ひとり行く 元禄二年八月七日(1689年9月20日)

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「七日 快晴。 辰ノ中刻、全昌寺を立。」と旅日記に記していますように、曽良は7時20分頃大聖寺を発ち、吉崎に寄り道し北潟から金津宿に出て「申ノ下刻、森岡二着。六良兵衛ト云者ニ宿ス。」17時頃に森岡に到着しました。 「森岡」は丸岡もしくは森田とされ、翌日の旅日記に「森岡を日ノ出ニ立て、舟橋ヲ渡テ」とあるところから、九頭竜川に架かる舟橋北詰である森田(稲多宿)説が有力なようにも見えます。しかし全昌寺から丸岡までは約八里、森田なら九里半ほどの距離で、吉崎見物に2時間費やしたとすれば歩行8時間余となり丸岡かもしれません。また翌八日は5時45分くらいに「森岡」を出て、巳ノ刻前すなわち8時半くらいに福井に着いています。丸岡から福井は三里余もし芭蕉が宿泊したとの言伝えのある丸岡長崎の称念寺ですと三里弱、森田からは一里半足らずですからやはり「森岡」は丸岡ではなかったかと思います。 芭蕉も全昌寺の次の日は丸岡に一泊したようです。全昌寺、吉崎、丸岡、今庄、敦賀、色が浜、木之本、関ヶ原と、曽良は芭蕉の宿泊先に前触れしていっているような道中に見えます。芭蕉の知り合いがいる松岡には寄らず、福井も単に通過しただけでした。

2023年9月18日(旧暦八月四日) 翁・北枝、那谷に趣く 元禄二年八月五日(1689年9月18日)

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「五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷ヘ趣。明日、於小松、生駒万子為出会也。」(曽良旅日記) 「花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大悲大慈の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」(おくのほそ道) 山中温泉泉屋より那谷寺まで、二里半余。那谷寺より小松建聖寺まで三里足らず、芭蕉は那谷寺で一休みがてら参拝、夕方には小松に着いたことと思われます。 芭蕉は北枝と那谷寺に向けて山中温泉を出発したあと、曽良は「帰テ、即刻、立。大正持(大聖寺)ニ趣。全昌寺ヘ申刻着、宿。夜中、雨降ル。」と、一人で旅立ちました。全昌寺まで二里半程ですから、曽良も芭蕉を見送り、宿に戻ってすぐ昼過ぎに出立したのではないでしょうか。こうして三月二十七日(あるいは三月二十日だったかもしれません)江戸深川を出立以来、4か月余り二人旅を続けてきた芭蕉と曽良は、別れることになりました。 「曽良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、/ 行々てたふれ伏とも萩の原 曽良 / と書置たり。行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳬(せきふ)*のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、/ 今日よりや書付消さん笠の露」(おくのほそ道) 「行ものゝ悲しみ」は、再掲になりますが、曽良の「秋の哀入かはる湯や世の気色」。 曽良は金沢では何度か薬をもらうなど体調が悪かったのですが、このあと長島大智院に到着するまでそのような記録は旅日記にはありません。但し、到着した翌八月十六日の条に「其夜ヨリ薬用」とありますから、やはり万全ではなかったのかもしれません。 *隻鳬は群れから離れた一羽の雁といった意。

2023年9月15日(旧暦八月一日) 秋の哀れ 元禄二年八月二日(1689年9月15日)

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  「二日 快晴。」曽良の旅日記には記されているのはこれだけです。前日は、「八月朔日 快晴。黒谷橋*ヘ行。」、前々日「晦日 快晴。道明が淵。」とここ数日は素っ気ない記述になっています。** この日芭蕉は、小松の塵生*が送ってきた「乾うどん弐箱」に添えられた急ぎの手紙に返事を書いています。うどんのお礼を述べたあと「仰せの如く、此度は御意を得、珍重に存候。此地に急ギ申候故、御暇請(いとまごひ)も申さず残念に存候。然(しかれ)ば天神奉納発句之義其意を得候。別義御座無く候。入湯仕舞候はば其元へ立寄申筈に御座候(後略)」として、求めに応じ小松天神へ発句を奉納するためもどることを異議なく承諾しています。 三日前に大垣に書き送った八月の四、五日頃山中温泉を発って向かう旨の手紙と少し行程は変わりますが、名月前後に大垣に到着することが不可能になったわけではありません。しかしこの時芭蕉は大垣ではなく、おくのほそ道の途上のどこかで名月を迎えることを決意していたのではないかと私は思います。歌仙の名残り折の月の定座の如く配置できるように。そして大垣はおくのほそ道の結び、揚句の地として。芭蕉は曽良と語り合ったかもしれません、ただこのようなことは趣向は他言無用のことなので実際のところはわかりません。 曽良は旅日記の俳諧書留に「山中の湯/ 山中や菊は手折らじ湯の薫 翁/  秋の哀入かはる湯や世の気色 ソラ 」と書き残しています。金沢に入って以降今日に至るまで、主に北枝が案内や地元俳人との調整や宿や道中の手配等、一手に芭蕉の面倒を見て、地元に不案内の曽良の出る幕はほとんどなかったに違いありません。 *写真上:黒谷橋。「 此の川のくろ谷橋は絶景の地也 、はせを翁の平岩に座して手を打たゝき、 行脚のたのしみこゝにあり と一ふしうたはれしと自笑がかたりけるに、なつかしさもせちにおぼへて」という句空の「 今の手は何にこたえむほとゝぎす」の前書から芭蕉がこの地で感嘆して一節歌ったいう声を欄干に銘している。写真下:小松旧泥町の勧生亭跡の「ぬれて行や人もおかしきあめの萩」句碑。 塵生は 七月二十六日この芭蕉の発句で勧生亭で興行された五十句連句に連座し、またその前日山王宮での「しおらしき名や」歌仙にも連座した小松の俳人。芭蕉とは初対面だった。  **晦日(三十日)の道明が淵は、二十九日芭蕉に同行しなかったところに行

2023年9月12日(旧暦七月二十八日) 予、往かず 元禄二年七月二十九日(1689年9月12日)

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  「二十九日 快晴。 道明淵、予、不往。」(曽良旅日記) 芭蕉は北枝や桃妖らと、酒など提げて見物に出かけたのでしょう。 曽良が芭蕉に同行しない場合、今迄なら「病気故、不随」といった理由が記されていましたが、この日は何も書かれていません。ところが、翌日曽良は道明が淵に出かけています… この日芭蕉が大垣の如行宛に書いた手紙が残っています。 「(略)いまほどかがの山中の湯にあそび候。中秋四日五日比爰元立申候。つるがあたり見めぐりて、名月、湖水か若(もし)みの(美濃)にや入らむ。何れ其前後其元へ立越可申候。塔山丈・此筋子・晴香丈御伝可被下候。以上 七月二十九日」と、中秋の名月かその前後かに大垣に入るつもりであることを彼地の門人たちに知らせるものでした。おくのほそ道出立前からの名月は当地でという大垣の門弟たちの願いに応えるもので、芭蕉が進んでというより曽良の強い要請によって、この手紙を書いたたのではないかと私は思います。なお、この手紙には、大垣で芭蕉を迎え歌仙にも連座することになる木因、左柳、斜嶺等の名がありませんので、別に彼らにも手紙を書いていたと推定されます。

2023年9月11日(旧暦七月二十七日) 温泉に浴す 元禄二年七月二十八日(1689年9月11日)

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「温泉(いでゆ)に浴す。其功(効)有間(馬)に次と云。山中や菊はたをらぬ湯の匂 あるじとするものは、久米之助とて、いまだ小童也。」 おくのほそ道本文では、上記の前に「山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。」で始まり、「石山の石より白し秋の風」で終わる那谷寺の条が置かれており、実際の旅の順序と芭蕉は変えています。 宿の泉屋は総湯(現在の菊の湯)すぐ傍(写真手前右側辺り)にありました。主人久米之助は十四歳、芭蕉滞在中に桃妖の俳号をもらい弟子になりました。その時芭蕉は「加賀山中、桃妖に名を付け給ひて 桃の木のその葉散らすな秋の風」と詠んでいます。のちに桃妖は「帋鳶(たこ)切て白根が嶽を行衛哉」の句で「猿蓑」に入集することになります。 「二十八日 快晴。夕方、薬師堂其外町辺を見ル。夜ニ入、雨降ル。」と曽良旅日記にあり、医王寺(薬師堂)はじめ町を見廻りました。 金沢の句空が編纂、元禄五年に出版した俳諧集「柞原(ははそはら)」に「温泉に来る人々を伴ひて山に遊ぶも、われそれをやどす家なれば也 人毎に花をとひけり片籠(かたご)草」という桃妖の句があります。カタクリ(片籠草)の花は4月頃のことですから、芭蕉が訪れた折の句ではありませんが、桃妖は芭蕉一行を案内して回り、この日も一緒だったと思います。 同じ集に「(此句ハばせを翁山中上湯の時、やどのあるじ桃妖に書きてたぶ。まへがきありしかど、わすれ侍り) 湯の名残り今宵は肌の寒からん」という芭蕉の句が掲載されています。この句には「山中湯上りにて、桃妖に別るゝ時」という前書や「湯の名残り幾度見るや霧のもと」という存疑ながら異形句も残されていて、句空の前書を忘れたという付記も合わせて、なにやら妖しい雰囲気が漂っています… 左写真は、医王寺にある桃妖の墓碑。

2023年9月10日(旧暦七月二十六日) 留めるといえども発つ 元禄二年七月二十七日(1689年9月10日)

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結局、芭蕉は三日間とどまって二十七日、諏訪宮祭に詣でたのち10時過ぎ、地元俳人が引き留めるのを振り切り小松を立ちます。 「斧卜・志格等来テ留トイヘドモ、立。」曽良と北枝が同行して、「山中ニ申ノ下剋、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。」と、なぜか那谷寺には寄らず山中温泉に直行します。先を急いでいたか可能性があります。 辿った道筋は明らかではありません。おそらく北陸道を上り月津一里塚を通過、動橋から山中温泉に向かったと思われますが、四十九院・黒谷峠越えをしたのか山代温泉を経由する道を選んだのかわかりません。 左写真は、山中温泉黒谷橋の麓に立つ芭蕉堂。このお堂は明治時代に建てられたもので、陶の小さな芭蕉像が祭られています。 私は若干昔の道らしさが残る黒谷を越えるルートを進みましたが、旧道は廃止、峠の隧道は閉鎖、熊の出没情報もあり、途中で地元の方からは新しくできている「四十九院トンネル」を行くように勧められました。 ところが、トンネル入口まで来て全長1436mの表示に恐れをなしてしまい、熊も怖かったですけど、結局何とか無事に黒谷峠を越えて山中温泉黒谷橋に着きました。 左写真は、黒谷峠旧隧道。地元の方から閉鎖されているが人ひとり通れるくらいの隙間ならるかもしれないと教えられました。しかしながら大きさは十分だったのですけど、それは2.5m以上の上部にしかありませんでした…

2023年9月8日(旧暦七月二十四日) 快晴、小松を発んと欲す 元禄二年七月二十五日(1689年9月8日)

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昨日夜降った雨も上がり快晴となった朝、芭蕉と曽良は小松を発とうとしましたが、それを聞いた地元の人々は北枝を通じて留まるようお願いし、芭蕉は小松に留まることにします。 北枝は生家と同じ町内の勧生らの頼みは断りがたく、芭蕉も地元俳人らの熱心さに小松に新しい俳諧の種を蒔くチャンスと思ったのでしょう。しかし、是は曽良にとって予定外のことでした。宿を建聖寺に移し「多田神社へ詣デゝ、実盛ガ甲冑・木曽願書ヲ拝。」 左写真は建聖寺に残る北枝作の芭蕉像です。 「実盛が甲・錦の切あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金(こがね)をちりばね、竜頭に鍬形打たり。(略) むざんやな甲の下のきりぎりす」(おくのほそ道)とあります。 この「きりぎりす」の句は後日二十七日に奉納した「あなむざんや甲の下のきりぎりす」がもとの句です。 多田神社のあと山王宮(本折日枝神社)の宮司宅で、小松の俳人多数が連座した十吟四十四(よよし)連句興行を行いました。 発句は芭蕉の「しほらしき名や小松吹く萩薄」でした。

2023年9月7日(旧暦七月二十三日) 野々市迄送らる 元禄二年七月二十四日(1689年9月7日)

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九日間滞在した金沢をこの朝出発します。快晴でした。小春や牧童など多くの人が途中まで「餅・酒等持参」で見送り、北枝と竹意が小松まで同行しました。 旧北国街道は、片町から犀川を渡り野町を抜けて、野々市、松任など豊かな町を通り、手取川を渡って小松に向かいます。 写真は、野々市の町並み 芭蕉一行は15時過ぎに小松に到着、北枝の生家の傍を通り、京町にあったという近江屋を宿にしました。 おくのほそ道に、「途中吟 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風」

2023年9月5日(旧暦七月二十一日) 塚も動け 元禄二年七月二十二日(1689年9月5日)

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二十二日、兄の主催で一笑の追善会が願念寺で催されました。一笑の墓碑と塚、門前には芭蕉の「塚も動け」句碑が残されています。 願念寺は現在野町の忍者寺とも呼ばれる妙立寺の北側にありますが、当時は一笑が営んでいた「茶屋新七」が川原町(現在の片町芭蕉の辻辺り)の北側古寺町にあり、その後移転したものだようです。このようなこともあってか、明暦の頃には一笑の追善会は成学寺で行われたとされ、法要が行われ現在ここにも一笑塚が残されています。(中段の写真は、願念寺の一笑塚、下段は成学寺のものです。) 塚も動け我泣声は秋の風 一笑追善会での芭蕉の絶唱です。  

2023年8月29日(旧暦七月十四日) 去十二月六日死去ノ由 元禄二年七月十五日(1689年8月29日)

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芭蕉と曽良は14時くらいに金沢に着き、卯辰山麓浅野川の小橋辺りにあったといわれます宿、京屋にひとまず落ち着きます。高岡から十一里ほどありますから、馬を使ったのでしょうがなかなかの移動速度です。私は中津幡から鉄路のお世話になり金沢駅16時38分着でした。 「未ノ中刻、金沢二着。京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ。即刻、竹雀・牧童*同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。」(曽良旅日記) *竹雀は小春の兄で本陣蔵宿の宮竹屋を父喜左衛門から継ぎ、小春は長兄が継いでいた本家筋の薬種商の宮竹屋の家督を譲られます。牧童は北枝の兄で、どちらも刀研師です。左の写真は、芭蕉が泊った浅野川小橋辺り。 芭蕉は一笑と会うのをたいへん楽しみに金沢に入りました。早速十五夜の今日、小春や北枝らとともに歌仙を巻こうと発句**を練っていたかもしれません。 **曽良の俳諧書留に「盆 同所 熊坂が其名やいつの玉祭」の句が残っています。同所は加賀金沢のことです。 「一笑と云ものは、此道のすける名のほのぼの聞えて、世に知人(しるひと)も侍しに、去年の冬、早世したり」(おくのほそ道) 年三十六、辞世「心から雪うつくしや西の雲」 旅に出る直前に、芭蕉が序を編者である名古屋の荷兮に書き送り、出版された「阿羅野」には一笑「蚊の痩て鎧のうへにとまりけり」など7句、小春7句入集、北枝も入集を果たしていました。 金沢は満月でした。

2023年8月29日(旧暦七月十四日) 金沢は七月中の五日也 元禄二年七月十五日(1689年8月29日)

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快晴の高岡を発ち、芭蕉は松並木の北国街道を金沢に向かいます。 暑さは今も往年と変わりませんが、松並木の面影はなく「往還の松跡」の説明板が残るばかりです。「往還」とは江戸時代の公(おおやけ)の街道を指し、幕府の命によって並木が整備されていたそうです。 左写真:小矢部市にひと株残されていた街道の松が、ついに立ち枯れて昭和55年伐採された趾に植えられたらしい松。 石動(いするぎ)から木曽義仲が、平家との倶利伽羅合戦の折に戦勝を祈願した埴生八幡社を参拝、義仲が「牛の角に松明をつけ平家の大軍を敗走させた古戦場」と言われる倶利伽羅峠越えにかかります。旧道は「歴史国道」という名で整備されていますが、先日の大雨の為か所々崩れたり倒木により塞がれたりしていました。 おくのほそ道本文には、この間「卯の花山、くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。」といたって簡潔に記されるのみで、芭蕉は義仲には触れていません。

2023年8月28日(旧暦七月十三日) 高岡 元禄二年七月十四日(1689年8月28日)

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「高岡ニ申ノ上刻、着テ宿。翁、気色不勝(すぐれず)。暑極テ甚(はなはだし)。」曽良の旅日記です。 15時過ぎに到着した高岡は、藩第一の経済都市として加賀藩の台所と呼ばれ繁華な町でした。芭蕉は、高田から暑い日の続く旅で疲労困憊、今日行きたかった有磯海も間近に見ることができなかった落胆もあって、宿にへたり込んだのではないでしょうか。 私は鉄路のおかげで涼しい車中で回復して、高岡駅に着きました。高岡には城跡、藩政時代初期からの地元産業「高岡鋳物」発祥地の金屋町や土蔵造りの山町筋など古い、趣きのある町並みが残されています。 芭蕉は十四夜の月を高岡で見ましたが、今日は十三夜でした。

2023年8月28日(旧暦七月十三日) 快晴、暑さ甚だし 元禄二年七月十四日(1689年8月28日)

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37℃の中、滑川から旧北国街道を南下、芭蕉と同じく富山には「カゝラズシテ」海沿いを進み、北前船で賑わっていた富山の港である東岩瀬から神通川、同じく北前船の港であった放生津(新湊)から庄川など大川を渡り、高岡に向かいます。 「数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤波は、春ならずとも、初秋の哀といふべきものをと、人に尋れば、『是より五里*、いそ伝ひして、むこふの山陰**のいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ』といひおどされて」(おくのほそ道)「氷見ヘ欲行、不往(いかず)。」(曽良旅日記)  左写真は新湊大橋。水平線の上に見えるのは氷見から能登に連なる山々。大橋との間に広がる湾が「有磯海」、大橋の左手に沿って奥に延びる海岸線が「那古の浦」です。 新湊大橋には「あいの風プロムナード」と名付けられたガラス張りの歩行者専用通路が路面下に設置されています。写真中央の斜張橋主塔左にある太い橋脚のように見えるのが歩行者用のエレベーターです。この写真は富山県が現在も運航しています無料の渡船から撮ったもので、人や自転車などは橋を渡らなくとも対岸に行くことができます。 那古の浦で人に尋ねたと読めますので、芭蕉は放生津から担籠の海を見やりながら氷見行きを断念、庄川を渡り、小矢部川は渡らず左に曲がり、一路高岡に向かったものと思います。芭蕉は万葉の歌枕を見に行きたかったのですが、マネージャーである曽良がとめました。きっと須賀川や尾花沢等と同様に芭蕉と曽良は、あす望月に金沢入りする旨事前連絡していたのでしょう。 左写真は、小矢部川河口に架かる伏木万葉大橋。河口の先に那古の海が見えます。「東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」(大伴家持) 私は334年前の芭蕉の意を汲んで、伏木万葉大橋を渡り大伴家持が赴任していた伏木を経て、越中国分から雨晴海岸を磯伝いに歩き、「本場」の有磯海を見てきました。雨晴から高岡まではJR西日本氷見線のお世話になって、10.9㎞を20分余、240円。 写真は雨晴海岸から有磯海を隔て富山方面を望む。水平線上に見える山脈は北アルプス。 *氷見は庄川河口から三里余り、雨晴は一里半程度の距離ですので、「五里」はだいぶオーバーな表現です。 **歌枕である二上山の北に連なる山塊で、有磯海に落ちる辺りが雨晴海岸。

2023年8月27日(旧暦七月十二日) 黒部四十八が瀬 元禄二年七月十三日(1689年8月27日)

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「くろべ四十八が瀬とかや」(おくのほそ道)、早月川などを渡り、夕方滑川宿に到着しました。    写真左 :黒部川河口 写真左下:滑川の夕陽、暑い暑い日でした。 前回に引き続き、今回は「鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神(しん)をなやまし、病おこりて事をしるさず。」の後半部についてです。 曽良旅日記に、この日「暑気甚シ」とあり、明十四日の条にも「快晴、暑甚シ」「暑極テ甚」と記しています。これら以外に曽良が「暑甚シ」と書き残している日は、三日前高田を発って能生まで行った七月十一日と、象潟に趣く前酒田で寺島彦助邸に招かれた六月十四日の計4日です。 また、「翁、持病」「甚労(つか)ル」等記録されている日は、山寺から大石田に戻った五月二十八日の「労ニ依テ」、月山・湯殿山から戻った六月七日の「甚労ル」、鶴岡長山邸に滞在中の六月十一日「翁、持病不快」、そして滑川から高岡まで道中した明十四日の「翁、気色不勝(すぐれず)」の計4日です。 鼠ヶ関から市振に到着した六月二十七日(8月12日)~七月十二日(1689年8月26日)間には、七月十一日しか含まれていません。集中しているのは七月十一日~十四日で、曽良の旅日記からは、市振を挟む4日間がまさに「暑湿の労に神(しん)をなやまし、病おこり」消耗した行程だったようです。 ということで、今回の後半部も結局、市振でのエピソード「一家に遊女もねたり萩と月」を挿入するため芭蕉の創作だったと思います。また、市振までの越後路の記述を省略する言い訳でもありました。ただ、芭蕉にとって「此間九日」は、雨も多く、新潟、柏崎、直江津での宿について不快な思いをしたり、躓いて川に落ちたりなど総じて快適な道中とはいえず、あまり書きたいこともなかったのかもしれません。* *ややこしい話ついでに、関連したもう少しややこしい話をさせていただきます。 元禄三年四月十日付、大垣の門弟此筋・千川宛書簡に「当春の句共別紙に書付進之候。江戸へ御遣し被成間敷、板行に入るゝにこまり果候。」とあります。江戸で勝手に集に入れて出版されるのを芭蕉は困っていたようで釘をさしています。 同年九月十二日付曽良宛書簡に、其角他の門弟は連絡もあり出版などん相談も事前に詳しくあるといった文の中で「嵐雪無事に居候哉。随分無沙汰ものにて、しみじみ

2023年8月27日(旧暦七月十二日) 市振立つ、虹立つ 元禄二年七月十三日(1689年8月27日)

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曽良旅日記に「十三日 市振立。虹立。」とあり、朝雨上がりに出発したのでしょう。芭蕉は市振関所を越えて、越後の国を出る国境である境川を渡って境関所から越中の国に入り、今日の宿泊地である滑河宿(現滑川)に向かいました。前方に朝日を受けて虹が出ていました。 芭蕉は「鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神(しん)をなやまし、病おこりて事をしるさず。」とおくのほそ道に書いています。この部分につきまして、2回に分けすこし考えてみたいと思います。 左の写真は、この日夕方、北アルプスのすそ野に立ったものです。 以下、今回は前半部についてです。 鼠ヶ関越えは六月二十七日(8月12日)でしたから、市振に到着した昨日まで15日間、村上、直江津・高田に滞留した日を除いた道中なら10日でした。「此間九日」は、「俗に『越後路九日、越中路三日』という。」らしいので、芭蕉はそれを採用したのかもしれません。では、越後の国にある市振の関をどうして「越中の国一ぶりの関」と書いたのでしょうか? 左の写真は、越後の国の市振関所跡。この関所は幕府が設置して高田藩が管理していたそうです。 「(越)中・(越)後ノ堺、川有。渡テ越中方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。」と曽良は書き残していますので、芭蕉が勘違いしたことはないように思います。おそらく次に続く市振の段の「北国一の難所を越えて(略)越後の国新潟の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしや也。」と文脈上同国である越後より遠い越中の方がふさわしいとの配慮から、芭蕉があえて脚色したのだと考えます。 左の写真は、加賀藩が設置した境関所跡です。それにしても越後との国境からですから加賀藩は大藩ですね。

2023年8月26日(旧暦七月十一日) 市振 元禄二年七月十二日(1689年8月26日)

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市振宿の北の入口には「海道の松」が植わっており、北からの旅人にとって親不知などの難所越えの終点であり、南からは難所に向かう起点でした。「松とその樹下は、一体のものとして神宿る場であり崇められ、旅の安全を願い、旅の安全感謝する地でもあった。」と案内板に解説されています。 現在は植え替えられて、何代目かのひょろっとした松が立派な添え木に寄り添うように立っています。 左の写真は、市振宿北からの入口。中央三叉路のところの松が「海道の松」、左が旧街道で関所、右に行くと市振の港があります。 元禄時代にも海道の松はあったかもしれませんが、おそらく芭蕉と曽良はその下を通ってはいないでしょうが、宿泊したといわれる桔梗屋から240mの距離ですから見物には来た可能性はあります。

2023年8月26日(旧暦七月十一日) 早川にて翁つまづく 元禄二年七月十二日(1689年8月26日)

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芭蕉は、雨と地元俳人の強い慰留により2泊して八日昼過ぎまで直江津に滞在、高田(現上越市高田)に向かい三泊して歌仙を巻いた後、十一日朝遅く高田を発ち、五智国分寺や居田(こだ)神社を参拝して能生宿(現糸魚川市能生)に泊まりました。 わたしは、直江津から鉄路で能生のひと駅先の浦本駅までショートカット。 「十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ剋、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。(略) 申ノ中剋、市振ニ着、宿。」(曽良旅日記) 左の写真は早川の河口です。 おくのほそ道本文には、「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど北国一の難所を越て、つかれ侍れば」とあります。 能生から早川まで約9㎞、早川から糸魚川の荒や町(現本町辺り)まで約5㎞。「午ノ剋」を12時とし、能生を7時に出発したとすれば14㎞を5時間(8月18日の項と同様に不定時法をこの時期に合わせ補正すれば5時間半余り)かかっています。途中早川で着物を干したことを考慮すると妥当なところでしょう。 糸魚川から市振までは約20㎞、「申ノ中剋」を16時とし、左五左衛門宅で半時間ほど休み12時半ごろ糸魚川を出発したとすれば、20㎞を3時間半(同4時間足らず)ほどしか要していません。「北国一の難所」がある20㎞の区間を、取り立てて難所のない能生~糸魚川14㎞より1.7倍くらい速く進んでいることになります。馬を使えば可能ですが、「駒返し・犬もどり」といった難所ですからあり得ません。芭蕉は「北国一の難所を越て」と書いてますが、曽良の旅日記には早川でつまずいたことは記録しているにもかかわらず、「北国一の難所」のことについて一切の記述はありません。何の問題もなかったかのように「申ノ中剋、市振ニ着、宿。」と書かれているのみです。これはいったいどういうことなんでしょうか?  わたしは、象潟から市振までの日本海側の街道の難所は多く、その中でもこの親しらずなどは一番で、山刀伐峠とは比較にならないほどの難所だとの実感から、糸魚川で休んだ「左五左衛門」は船宿か何かで、芭蕉と曽良は糸魚川から市振まで船便を利用したのではないかと想像します。 おくのほそ道本文の市振の段は、新潟の遊女だけでなく「北国一の難所を越て」も芭蕉のフィクションであると思います。

2023年8月20日(旧暦七月五日) 六日も常の夜には似ず 元禄二年七月六日(1689年8月20日)

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当時今町と呼ばれた直江津*に到着、ここでも低耳の紹介状を持って聴信寺を訪ね宿を求めましたが、あいにくの忌中法要のため強いては引き止められなかったので、結局別に宿を見つけました。 聴信寺の住職も眠鷗という俳号を持ち、「夜ニ至テ、各来ル。発句有。」と曽良は書いていますように、眠鷗はじめ喜衛門(左栗)、佐藤元仙(右雪)などが宿に集まり、芭蕉の「文月や六日も常の夜には似ず」を発句に連句興行が行われました。 一説には、7月6日直江津では短冊をつけた笹を精霊の依代として飾り立てる習俗があったといいます。芭蕉はそのような行事を目撃するか、新潟でも似たような6日の行事があったそうですから、旅の途中に聞いたりしていて、この日の挨拶句にしたのかもしれません。** *直江津は現在の上越市中央、西本町、東町等で直江津という地名は住居表示には残っていません。元禄時代の「今町」が消えたように…   **そもそも「七夕(たなばた)」はいくつかの行事が合わさったものです。①中国の7月7日の夕刻に精霊棚を作って死者を弔う「七夕(しちせき)」(お盆行事ですね)、②同じく中国の牽牛・織女の伝説から技工・芸能の上達を願う行事の「乞巧奠」、③日本の棚機(たなばた)姫にまつわる行事で、村などで選ばれた巫女が、6日に水辺の機屋に入り機を織りながら神の訪れを待つという行事。(①と②を一緒にしたような行事ですけど)などが混ざり合ったものだそうです。

2023年8月19日(旧暦七月四日) 天屋、不快シテ出ズ 元禄二年七月五日(1689年8月19日)

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五日、出雲崎を発った芭蕉は雨の中柏崎に到着、象潟で芭蕉に随行しおくのほそ道本文に句を残している「みのゝ国の商人 低耳」(宮部弥三郎)の紹介状を持って、大庄屋天屋に宿を求めます。 「出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎、天ヤ弥惣兵衛へ弥三良(低耳のこと)状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。」この「小雨折々降ル」に、曽良のこの時の気持ちが現れているようです。 天屋跡の北200mぐらいのところに、「天屋旅館」という料理旅館が現在営業中です。明治時代の創業だそうで、芭蕉と曽良が尋ねた「天屋弥惣兵衛」とのつながりは見当たりませんが、何らかの理由があっての命名だと思われます。もし、末裔の係累の方が関係されていたとしても、わざわざ雨の中紹介状を持って訪ねてきた芭蕉を追い返した「天屋」だということは、あまり名誉なことではないですから、敢えて言わないのかもしれません…

2023年8月18日(旧暦七月三日) 銀河ノ序 元禄二年七月四日(1689年8月18日)

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おくのほそ道本文には出雲崎のことは記されていません。が、「文月や六日も常の夜には似ず」のあとに「荒海や佐渡によこたふ天河」とあります。 この「荒海や」の句については「銀河ノ序」といわれる俳文を残しています。本文は出典や真蹟懐紙によってかなりの異同がありますが、共通点は、出雲崎の海には佐渡ヶ島がよこ折れふして手に取るよう間近に見えるとし、本句で結ばれている点です。 「荒海や」の句は芭蕉の代表作ともいえる評価の高い句ということもあり、どこで詠まれたかの本家争いは激しく、出雲崎、寺泊や初めて披露された直江津*などがあります。曽良が「七夕」として本句を書き留めており、またおくのほそ道でも「文月や」の次に置かれていますので、芭蕉としては七月七日の句として扱っていることは間違いありませんが、着想・初案を得たのは、今日元禄二年七月四日(1689年8月18日)、出雲崎だと思います。 *七月七日の直江津は、昨日からの雨が昼の少しの間止んだものの一日中降り止まず、夜中風雨が激しくなったと曽良が書き残していますので、六日も七日も天の川は見えなかったと思われます。

2023年8月18日(旧暦七月三日) 快晴出雲崎、夜中雨強く降る 元禄二年七月四日(1689年8月18日)

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この日の朝7時頃に、芭蕉は快晴の弥彦を発ち出雲崎をに向かいました。途中寺泊より浜街道を辿り、一昨日の新潟への船からよりも佐渡島が間近に見えました。天気も良くアイの風に背中を押されながらの、快適な道中だったと思います。 「申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中雨強降。」(曽良旅日記) 15時過ぎですから、弥彦から約27kmを8時間ほどかけての比較的楽な行程です。(当時は不定時法で、日の出から日没までの中間を卯・辰・巳・午・未・申の刻の六等分してますので、夏冬の一刻の長さには大分差があります。8月18日の日の出は5時1分頃、日の入りは6時34分頃で、昼間は13時間32分ほどになり、現在の定時法に比べて1.128倍くらい長くなりますから、今の時間でいうと芭蕉は9時間ほどかけてゆっくり歩いたことになります。) わたしは猛暑の中、今にも倒れそうになりながら宿屋に到着しました。 出雲崎は、天領で、佐渡相川金山の金銀はこの港に陸揚げされて北国街道から中山道を江戸まで運ばれました。また、北前船の寄港拠点として多くの船主や廻船問屋が軒を連ね、宿場は北国街道沿いに一里近くに及びたいへん栄えた町でした。この町の大庄屋橘屋山本家の長男として宝暦八年(1758)に生まれたのが、のちの良寛でした。良寛の父は寛政七年(1795)京都桂川に入水。良寛は若くして出家していたため弟が庄屋を継ぎましたが、弟は文化七年(1816)に家財没収のうえ所払いとなり、山本家は没落します。良寛53歳の時だそうです。 良寛は今、生家跡で佐渡ヶ島を静かに見つめています。