2023年8月26日(旧暦七月十一日) 早川にて翁つまづく 元禄二年七月十二日(1689年8月26日)

芭蕉は、雨と地元俳人の強い慰留により2泊して八日昼過ぎまで直江津に滞在、高田(現上越市高田)に向かい三泊して歌仙を巻いた後、十一日朝遅く高田を発ち、五智国分寺や居田(こだ)神社を参拝して能生宿(現糸魚川市能生)に泊まりました。

わたしは、直江津から鉄路で能生のひと駅先の浦本駅までショートカット。

「十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ剋、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。(略) 申ノ中剋、市振ニ着、宿。」(曽良旅日記) 左の写真は早川の河口です。

おくのほそ道本文には、「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど北国一の難所を越て、つかれ侍れば」とあります。

能生から早川まで約9㎞、早川から糸魚川の荒や町(現本町辺り)まで約5㎞。「午ノ剋」を12時とし、能生を7時に出発したとすれば14㎞を5時間(8月18日の項と同様に不定時法をこの時期に合わせ補正すれば5時間半余り)かかっています。途中早川で着物を干したことを考慮すると妥当なところでしょう。

糸魚川から市振までは約20㎞、「申ノ中剋」を16時とし、左五左衛門宅で半時間ほど休み12時半ごろ糸魚川を出発したとすれば、20㎞を3時間半(同4時間足らず)ほどしか要していません。「北国一の難所」がある20㎞の区間を、取り立てて難所のない能生~糸魚川14㎞より1.7倍くらい速く進んでいることになります。馬を使えば可能ですが、「駒返し・犬もどり」といった難所ですからあり得ません。芭蕉は「北国一の難所を越て」と書いてますが、曽良の旅日記には早川でつまずいたことは記録しているにもかかわらず、「北国一の難所」のことについて一切の記述はありません。何の問題もなかったかのように「申ノ中剋、市振ニ着、宿。」と書かれているのみです。これはいったいどういうことなんでしょうか? 

わたしは、象潟から市振までの日本海側の街道の難所は多く、その中でもこの親しらずなどは一番で、山刀伐峠とは比較にならないほどの難所だとの実感から、糸魚川で休んだ「左五左衛門」は船宿か何かで、芭蕉と曽良は糸魚川から市振まで船便を利用したのではないかと想像します。

おくのほそ道本文の市振の段は、新潟の遊女だけでなく「北国一の難所を越て」も芭蕉のフィクションであると思います。

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