2023年9月18日(旧暦八月四日) 翁・北枝、那谷に趣く 元禄二年八月五日(1689年9月18日)

「五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷ヘ趣。明日、於小松、生駒万子為出会也。」(曽良旅日記)

「花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大悲大慈の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」(おくのほそ道)

山中温泉泉屋より那谷寺まで、二里半余。那谷寺より小松建聖寺まで三里足らず、芭蕉は那谷寺で一休みがてら参拝、夕方には小松に着いたことと思われます。

芭蕉は北枝と那谷寺に向けて山中温泉を出発したあと、曽良は「帰テ、即刻、立。大正持(大聖寺)ニ趣。全昌寺ヘ申刻着、宿。夜中、雨降ル。」と、一人で旅立ちました。全昌寺まで二里半程ですから、曽良も芭蕉を見送り、宿に戻ってすぐ昼過ぎに出立したのではないでしょうか。こうして三月二十七日(あるいは三月二十日だったかもしれません)江戸深川を出立以来、4か月余り二人旅を続けてきた芭蕉と曽良は、別れることになりました。

「曽良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、/ 行々てたふれ伏とも萩の原 曽良 / と書置たり。行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳬(せきふ)*のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、/ 今日よりや書付消さん笠の露」(おくのほそ道) 「行ものゝ悲しみ」は、再掲になりますが、曽良の「秋の哀入かはる湯や世の気色」。

曽良は金沢では何度か薬をもらうなど体調が悪かったのですが、このあと長島大智院に到着するまでそのような記録は旅日記にはありません。但し、到着した翌八月十六日の条に「其夜ヨリ薬用」とありますから、やはり万全ではなかったのかもしれません。

*隻鳬は群れから離れた一羽の雁といった意。


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