2023年8月27日(旧暦七月十二日) 黒部四十八が瀬 元禄二年七月十三日(1689年8月27日)

「くろべ四十八が瀬とかや」(おくのほそ道)、早月川などを渡り、夕方滑川宿に到着しました。
  



写真左 :黒部川河口
写真左下:滑川の夕陽、暑い暑い日でした。
前回に引き続き、今回は「鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神(しん)をなやまし、病おこりて事をしるさず。」の後半部についてです。
曽良旅日記に、この日「暑気甚シ」とあり、明十四日の条にも「快晴、暑甚シ」「暑極テ甚」と記しています。これら以外に曽良が「暑甚シ」と書き残している日は、三日前高田を発って能生まで行った七月十一日と、象潟に趣く前酒田で寺島彦助邸に招かれた六月十四日の計4日です。
また、「翁、持病」「甚労(つか)ル」等記録されている日は、山寺から大石田に戻った五月二十八日の「労ニ依テ」、月山・湯殿山から戻った六月七日の「甚労ル」、鶴岡長山邸に滞在中の六月十一日「翁、持病不快」、そして滑川から高岡まで道中した明十四日の「翁、気色不勝(すぐれず)」の計4日です。
鼠ヶ関から市振に到着した六月二十七日(8月12日)~七月十二日(1689年8月26日)間には、七月十一日しか含まれていません。集中しているのは七月十一日~十四日で、曽良の旅日記からは、市振を挟む4日間がまさに「暑湿の労に神(しん)をなやまし、病おこり」消耗した行程だったようです。

ということで、今回の後半部も結局、市振でのエピソード「一家に遊女もねたり萩と月」を挿入するため芭蕉の創作だったと思います。また、市振までの越後路の記述を省略する言い訳でもありました。ただ、芭蕉にとって「此間九日」は、雨も多く、新潟、柏崎、直江津での宿について不快な思いをしたり、躓いて川に落ちたりなど総じて快適な道中とはいえず、あまり書きたいこともなかったのかもしれません。*
*ややこしい話ついでに、関連したもう少しややこしい話をさせていただきます。
元禄三年四月十日付、大垣の門弟此筋・千川宛書簡に「当春の句共別紙に書付進之候。江戸へ御遣し被成間敷、板行に入るゝにこまり果候。」とあります。江戸で勝手に集に入れて出版されるのを芭蕉は困っていたようで釘をさしています。
同年九月十二日付曽良宛書簡に、其角他の門弟は連絡もあり出版などん相談も事前に詳しくあるといった文の中で「嵐雪無事に居候哉。随分無沙汰ものにて、しみじみしたる状一通もこし不申候。(略)集あみ候由、これにも何事を何にいたし候やら、くわしく承ず候。」と芭蕉は不満を述べています。
この嵐雪編の「集」は六月板行されていた「其袋」で、この時点で芭蕉は知らなかったように書いています。
(じつは知っていた可能性が高い気がします。「其袋」は、京都井筒屋庄兵衛から出版されており、芭蕉は元禄三年四月初旬から九月末までは石山の幻住庵はじめ木曽塚など湖南に滞在、この間六月初めから十八日京に行って去来等と頻繁に会っています。また其袋には大津の尚白7句、去来3句はじめ越人や野水ら幻住庵来訪者が入集していますので、この期間に話が出なかったはずはなく、誰かが出版された本を芭蕉に見せたことも十分あり得ます。もしそうだとすれば、どうして芭蕉は曽良宛にこのような手紙を書いてのでしょう? ますますややこしくなりますから、またいつかの機会に考えてみたいと思います…)
同集には芭蕉句は8句入集しており、その内6句がおくのほそ道での句でした。これらの句は芭蕉が旅先から門人らに書き送った書簡から採録されたり、江戸に戻った曽良や元禄三年四月に江戸に立ち寄った路通の、蕉門の会などでの話から引用したもので、出版について芭蕉が正式に承認したのではないように思います。
因みに「おくのほそ道」巻尾を飾る「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」が、「はまぐりの二見へわかれゆく秋ぞ」の句形で掲載されています。これは元禄二年九月二十二日付の伊勢から江戸杉風宛書簡にある句形で、もし嵐雪が事前にお伺いを立てていたならおそらく芭蕉は許さなかったでしょう。なおかつ「おなじくいせの国出るとて」という勝手な前書が付けられています。
このように芭蕉にとっては頭の痛い「其袋」でしたが、極め付きは直江津での連句の発句「文月や」でした。この句は越後で完成していましたから、掲載について芭蕉は承諾していたかもしれません。問題は、その前書で「北国何トヤラいふ崎にとまりて、所の夷(えびす)もおし入て、句をのぞみけるに」となっています。嵐雪が創作したのか、もしかして芭蕉か曽良の書簡にふざけてこのようなことが書かれていたのかもしれませんが、直江津の連衆には、場所があいまいされているとはいえ見ればすぐわかります。「所の夷もおし入て、句をのぞみける」と書かれ、随分腹だしかったに違いありません。新しい俳諧の種まきを目的に、命を懸けて旅した芭蕉もこれを知ったときは、さぞかし無念でしたでしょう…
こんなわけで、「荒海や」と「文月や」の自信句を得、越後路で蕉門の拠点づくりの可能性もあったかもしれない直江津・高田のくだりは書けなくなったと空想します。逆に言えばこのような事情があったので、市振のエピソードを創出せざるを得なかったのだと思います。
(蛇足です。山刀伐峠を越えて尾花沢に向かう途中、曽良は旅日記に「関ナニトヤラ云村」と、この前書と同じ表現をしています。)

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