2023年9月15日(旧暦八月一日) 秋の哀れ 元禄二年八月二日(1689年9月15日)

 

「二日 快晴。」曽良の旅日記には記されているのはこれだけです。前日は、「八月朔日 快晴。黒谷橋*ヘ行。」、前々日「晦日 快晴。道明が淵。」とここ数日は素っ気ない記述になっています。**

この日芭蕉は、小松の塵生*が送ってきた「乾うどん弐箱」に添えられた急ぎの手紙に返事を書いています。うどんのお礼を述べたあと「仰せの如く、此度は御意を得、珍重に存候。此地に急ギ申候故、御暇請(いとまごひ)も申さず残念に存候。然(しかれ)ば天神奉納発句之義其意を得候。別義御座無く候。入湯仕舞候はば其元へ立寄申筈に御座候(後略)」として、求めに応じ小松天神へ発句を奉納するためもどることを異議なく承諾しています。

三日前に大垣に書き送った八月の四、五日頃山中温泉を発って向かう旨の手紙と少し行程は変わりますが、名月前後に大垣に到着することが不可能になったわけではありません。しかしこの時芭蕉は大垣ではなく、おくのほそ道の途上のどこかで名月を迎えることを決意していたのではないかと私は思います。歌仙の名残り折の月の定座の如く配置できるように。そして大垣はおくのほそ道の結び、揚句の地として。芭蕉は曽良と語り合ったかもしれません、ただこのようなことは趣向は他言無用のことなので実際のところはわかりません。

曽良は旅日記の俳諧書留に「山中の湯/ 山中や菊は手折らじ湯の薫 翁/ 秋の哀入かはる湯や世の気色 ソラ」と書き残しています。金沢に入って以降今日に至るまで、主に北枝が案内や地元俳人との調整や宿や道中の手配等、一手に芭蕉の面倒を見て、地元に不案内の曽良の出る幕はほとんどなかったに違いありません。

*写真上:黒谷橋。「此の川のくろ谷橋は絶景の地也、はせを翁の平岩に座して手を打たゝき、行脚のたのしみこゝにありと一ふしうたはれしと自笑がかたりけるに、なつかしさもせちにおぼへて」という句空の「今の手は何にこたえむほとゝぎす」の前書から芭蕉がこの地で感嘆して一節歌ったいう声を欄干に銘している。写真下:小松旧泥町の勧生亭跡の「ぬれて行や人もおかしきあめの萩」句碑。塵生は七月二十六日この芭蕉の発句で勧生亭で興行された五十句連句に連座し、またその前日山王宮での「しおらしき名や」歌仙にも連座した小松の俳人。芭蕉とは初対面だった。 **晦日(三十日)の道明が淵は、二十九日芭蕉に同行しなかったところに行ったもので、曽良一人だったかもしれません。道明が淵も黒谷橋も宿の泉屋から15分ほどで行くことができる距離ですから、一日の大半をどう過ごしたかは不明です。三日、四日も天候のことしか曽良は書き残していません。結局、この6日間曽良が銅のように過ごしたのか、三十日からの5日間芭蕉がどう過ごしたか旅日記には記されていません。


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