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2023年6月19日(旧暦五月二日) 桑折 元禄二年五月三日(1689年6月19日)

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「短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶夜の余波(なごり)、心すゝまず。馬かりて桑折(こおり)の駅に出る。遥かなる行末かゝ覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと」と、必死の旅の覚悟を語る有名なくだりに、飯塚(飯坂)温泉は繋がっています。 温泉から桑折宿までは、曽良は「二リ」と書き残していますが、陣屋までなら一里半余り、追分迄二里弱です。その距離を馬で行ったのですから大楽珍道中だったはずです。「折々小雨降」に遭ったにしても… 写真は、わたしの奥州街道と陸羽街道が分かれる桑折追分での中休止です。飯坂から桑折に向かったのは実は6月26日、梅雨の晴れ間、たいへん暑い日でしたもので。お酒は桑折宿でしか売っていない「桑折」。美味しい。

2023年6月18日(旧暦五月朔日) 温泉(いでゆ)あれば 元禄二年五月二日(1689年6月18日)

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「其夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば、湯に入て宿かるに、土座に筵を敷て、あやしき貧家也。(略)雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤、蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入る計なん。」とおくのほそ道に書かれています。 これは多分に、芭蕉の脚色だと思います。飯塚は飯坂温泉のことです。「飯坂」のことを「飯塚」ともいうとの説もあるそうですが、曽良は旅日記に「飯坂」と表記してしますから芭蕉の思い違いかもしれません。「飯坂」は「いいざか」と読みますので、福島弁の「ざ」を「ず」と聞こえたとの説もあります。あるいは飯坂をいいように書いていないため、芭蕉があえて地名を違えて書いた可能性もあります。 飯坂温泉は古からの名泉で、鯖湖の湯ともよばれていました。「 名前の由来は、西行法師がこの湯を訪れた際、『あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さはこ)の見ゆる 山の彼方か』と詠み、そこから『鯖湖の湯』という名が定着したとも云われています。」とHPにありますが、元禄の頃にはどうだったのでしょう。ただ泉質は変わっていないと思います。単純温泉で高温、pHも高く、いい温泉で芭蕉の持病にも聞いたはずなんですけど…。 ちなみに、鯖湖湯の湯温は46度、泊まった宿の湯温は45度でした。

2023年6月18日(旧暦五月朔日) しのぶもぢ摺 元禄二年五月二日(1689年6月18日)

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 「二日 快晴。福島ヲ出ル。」と曽良の旅日記にあります。芭蕉一行は信夫山の麓を北西に進み、途中「右ノ方ヘ七、八丁行テ」阿武隈川を、岡部の渡しで越え、歌枕の「しのぶもぢ摺り石*」を尋ねます。曽良は36丁(一里)程と書いていますが、もう少しあります。 この後、月の輪の渡しで再び阿武隈川を渡って佐藤庄司の旧跡を訪ねています。 *曽良は「文字摺石」と理解していたようですが、現在の表記は「文知摺石」となっています。なお、岡部の渡し跡付近に「もじすり橋」、月の輪の渡しは、跡の碑とだいぶ場所は違いますが「月の輪大橋」が掛けられています。

2023年6月17日(旧暦四月二十九日) あさか 元禄二年五月朔日(1689年6月17日)

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  「おくのほそ道」では、佐藤庄司の旧跡を尋ね、「又かたはらの古寺(佐藤一族の菩提寺である医王寺のこと)に一家の石碑を残す。(略) 爰に義経の太刀、弁慶が笈をとどめて什物とす。/笈も太刀も五月にかざれ帋幟/五月朔日の事也。」とありますが、これは福島に泊まった次の日である五月二日のことでした。 五月朔日は、二十九日郡山に泊り、明けて次の宿である「檜皮(日和田)の宿を離れてあさか山有。道より近し。この辺り沼多し。かつみ刈る比もやゝ近うなれば」とかつみを尋ね歩き、「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見」した日です。石河の滝から守山宿、郡山宿の三春街道を経由した道中をカットして、芭蕉は「等窮が宅を出て五里計」とあたかも須賀川を発った日のごとくあさか山の下りを書き始めて辻褄を合わせたうえ、尋ね歩いた時間の長さを強調したかったようで、「日は山の端にかゝりぬ。」と書いています。ただ、続けて「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見、福島に宿。」となっていますが、黒塚から福島宿まで七里余りありますから日が傾いてからでは到底無理な距離です… 写真は、郡山の宿から檜皮宿に向かう途中、沼を探索しながらかつみも探していた私が、富久山町福原という縁起のいい地名のところを歩ています時、普通のお家の庭でたまたま見つけた「かつみ」!!!です。 このあと、あさか山に行ってわかったのですが、1989年「おくのほそ道」300年を記念して地元の人たちが立ち上がり、「花かつみの里ひわだ」とすべく植栽したそうです。ありがたいことです。それにしても、芭蕉や恐るべし。

2023年6月16日(旧暦四月二十八日) 発足。石河滝見ニ行 元禄二年四月二十九日(1689年6月16日)

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  8日滞在した須賀川を等躬の心づくしの馬に乗り出立しました。天気は快晴、「巳中剋」ですから10時くらいです。まず、行きそびれた石河の滝(現乙字ヶ滝)を見物したあと阿武隈川を渡り、三春街道を進み守山宿(現在の郡山市田村町守山)の大元明王(現田村神社)や本実坊・善法寺に参詣し、その後三春街道を離れ金屋から阿武隈川を渡り日出山宿(現郡山市安積町日出山)で奥州街道に戻り、「日の入り前、郡山ニ到テ宿ス」。今日の日没時刻は19時2分ですから18時半過ぎくらいでしょうか、郡山に着きました。須賀川から」約七里、途中守山宿で乗継いで全行程馬での道中でした。 私は、矢吹宿から須賀川宿まで道中で先行して乙字ヶ滝に立ち寄り、須賀川~郡山間は東北本線でショートカットしました。乙字ヶ滝の水量は残念ながら写真の通り多いとは言えませんでした。

2023年6月15日(旧暦四月二十七日) 十念寺 元禄二年四月二十八日(1689年6月15日)

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  「発足ノ筈定ル」 芭蕉一行は、須賀川を出立するはずのところを引き留められました。十念寺などを参詣してます。 現在、十念寺には芭蕉の句碑( 風流のはじめや奥の田うえ唄 )が建っていいます。 また、須賀川出身で江戸時代末にかけて活躍、慶応元年(1865年)九十歳で亡くなった市原多代女の句碑もあります。「 終に行く道はいずこぞ花の雲 」(辞世句) なお、相楽家の菩提寺長松院には一族の墓所があります。芭蕉より少し年長だった等躬は正徳五年(1715年)まで長生きしました。享年七十七歳でした。長松院には辞世の句碑も建っており、辞世句は「 あの辺はつく羽山哉炭けふり 」です。 左の写真は、相楽家の墓所で、中央白い標識の右が等躬の墓碑です。その上に並ぶ笠のある三つの墓碑は古いもので寛文(左)、延宝(右)、貞享(中)年間です。等躬の祖父や父などでしょうか。

2023年6月14日(旧暦四月二十六日) 芹沢ノ滝へ行 元禄二年四月二十七日(1689年6月14日)

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  「二十七日 曇」となっていますが、ことし同様曇時々雨といった天気だったのかもしれません。 多分この日予定だったのでしょう、「須か川の駅より東二里ばかりに、石河の滝といふあるいよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといゝて止ければ/ 五月雨は滝降りうづむみかさ哉  翁/案内せんといはれし等雲と云人のかたへかきてやられし。」と曽良は書き残しているところから、可伸庵で蕎麦をごちそうしてくれた等雲から誘われていた石河の滝の代わりに、等躬の屋敷から半里足らずの芹沢ノ滝に行ったのかもしれません。

2023年6月11日(旧暦四月二十三日) 可伸庵 元禄二年四月二十四日(1689年6月11日)

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 「昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切。祐碩賞之。雷雨、暮方止。」と旅日記にあります。等躬の屋敷はずれにある栗斎の可伸庵で「隠家やめにたゝぬ花を軒の栗」を立句に、等躬、等雲(祐碩)らとの七吟興行が行われました。脇は栗斎、第三を等躬、曽良は第四を務めています。 曽良は俳句書留に「桑門可伸のぬしは栗の下に庵をむすべり。伝聞、行基菩薩の古、西に縁ある木也と、杖にも柱にも用させ給ふとかや。隠棲も心有さまに覚て、弥陀の誓いもいとたのもし」と記しており、本文には「此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧あり。(略) 栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此の木を用給ふとかや。/ 世の人の見付ぬ花や軒の栗」とありますから、芭蕉もこの「伝聞」を基にしています。 会席には歌仙に連座した等雲が用意した蕎麦切りが振舞われています。芭蕉は蕎麦好きだったようです。

2023年6月11日(旧暦四月二十三日) 主ノ田植 元禄二年四月二十四日(1689年6月11日)

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  「二十四日 主ノ田植。」駅長である相楽家の田植えの日です。芭蕉は、古来からの豊作を祈る一連の田植えにまつわる神事を見物しました。もちろん田植歌も歌われました。「風流の初め」を改めて実感し、感激もひとしおだったに違いありません。 じつは、 貞享三年正月の其角の立句「 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉」 による芭蕉も連座した百韻の第三十四句目に、「 近江の田植美濃に恥らん」(朱絃)の句があり、 芭蕉の評が「初懐紙評註」に、「 美濃近江は都近き所にて、田植えなどの風流も、遠き夷とはちがふ成べし。」とあります。おくのほそ道の旅の3年余り前です。 また、貞享五年 五月初め頃、岐阜妙照寺が己百が 笈の小文の旅を終えた 芭蕉を京に訪ね、「 しるべして見せばや美濃の田植歌」と美濃 に誘います。芭蕉は「 笠あらためん不破の五月雨」と詠み、 五月中旬岐阜で田植えを見ています。須賀川を訪れた前年のことです。 「今日の田植の 田んのし様は 大金持ちと来 きこえたよ 奥は奥州 南部や津軽 外が浜までも来」(須賀川仁井田の田植歌)

2023年6月9日(旧暦四月二十一日) 俳有 元禄二年四月二十二日(1689年6月9日)

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  須賀川到着その日、はやくも芭蕉、等躬、曽良のよる三吟歌仙が巻かれました。 「奥州岩瀬郡之内須か川 相良伊左衛門にて/ 風流の初やおくの田植歌 翁/ 覆盆子(いちご)を折て我まうけ草 等躬/ 水せきて昼寝の石やなをすらん 曾良(略)」と旅日記俳諧書留にある、芭蕉の挨拶句を立句とする歌仙です。(この歌仙は二日にわたり、満尾は翌二十三日でした。) 写真は等躬屋敷跡に建つ「風流のはじめ館」です。 一昨日二十日、芦野で立ち寄った遊行柳でも田植でした。寄居宿の古老に聞いたところ、昭和30年頃はまだ6月10日前後が田植えの時期で学校も休みになったとのこと。江戸時代とほとんど同じ時期に田植えがされていたようです。(現在は半月あまり早くなっています。)芭蕉は田植の最中の奥州街道を須賀川まで来たに違いありません。そのなかで、関を越え田植歌が変わったことに気づき、そのいかにも鄙びた古雅な調子に惹かれたのでしょう。もしかしたら、北に進むにつれ少しずつ田植えの時期がずれていくのに気づき面白く感じたかもしれません。 「なひのなかの うぐいすは なにをなにをと さへづる くらますにと かきそへて たわらつめ やンじゅろうと さへづる」(須賀川仁井田に残る田植歌)

2023年6月9日(旧暦四月二十一日) 須賀川宿 元禄二年四月二十二日(1689年6月9日)

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  「二十二日 須か川、乍単斎宿」と曽良は旅日記に記録しています。乍単斎は、須賀川の駅長、豪商・俳壇の中心人物で、芭蕉とは長年の知己であった相良等躬の別号です。 この日矢吹の宿を出た芭蕉と曽良は、須賀川宿の到着しました。この間三里ほどですから、昼前には着いたのではないでしょうか。等躬にあった喜びを「かの陽関を出て故人に逢なるべし」(俳諧書留)と記しています。 おくのほそ道本文には「すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とどめらる。先(まづ)『白河の関いかにこえつるや』と問(とふ)。「長途のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸(はらわた)を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。』」とあります。 須賀川市は、ウルトラマンの生まれ故郷であるM78星雲 光の国と300万年をつなぐ姉妹都市ということで、メインストリートにウルトラマンシリーズの有名キャラクターの等身大のフィギュアが並んでいます、円谷英二の出身地なんです。

2023年6月9日(旧暦四月二十一日) かげ沼と云所を行 元禄二年四月二十二日(1689年6月9日)

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  「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。」とあります。「按ルニ影沼ハ春夏ノ交、地気蒸シ上テ日ニ映ズル。(略) 田間ノ遊気也。(略)土人、野ヲ名付テ影沼トイフ。」と本(「東遊行嚢抄」)にあるそうです。いわゆる沼ではなく、逃げ水のような蜃気楼だったみたいですね。 写真は影沼の面影を残すといわれています矢吹宿はずれの大池の一角です。

2023年6月8日(旧暦四月二十日) 越行まゝに 元禄二年四月二十一日(1689年6月8日)

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  「とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。」と本文にあります。構成上は白河の関を越えて、白河、矢吹宿あたりの道中にあたりますが、この描写は白河から郡山、福島くらいの情景が含まれています。 実際は、まず、奥州街道で阿武隈川を渡るのは白河城下を出たところ(二十一日通過)で、会津根すなわち磐梯山は須賀川宿(二十二~二十九日)くらいから左に見え出し、その姿が高くなるのは郡山から二本松あたり(二十九日~五月一日)です。同様に「右に岩城」は白河・矢吹(二十一、二十二日)、「相馬」は福島(五月一日、二日)、「三春」は郡山辺り(二十九日~五月一日)となります。なお、常陸・下野の国と岩代・岩城の国の境は、関東と奥州の境となり白河の関が置かれていたところです。たしかに八溝山*などがありますが、「山つらなる」との表現は上記の道中では、奥州街道と太平洋側を隔てて連なる阿武隈高地の情景がふさわしく思われます。 *曽良は旅日記俳諧書留に「八みぞ山 ひたち・下野・みちのくのさかい」とメモしています。 「おくのほそ道」創作にあたり、芭蕉によりおおいに脚色されているところです。   写真左:郡山を過ぎて「檜皮宿」近くからの磐梯山、右:矢吹宿近くの鏡石から阿武隈高地

2023年6月8日(旧暦四月二十日) 白川の関 元禄二年四月二十一日(1689年6月8日)

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  「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。」芭蕉、深川を出発して二十四日目のことです。 おくのほそ道には「卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとどめ置れしぞ。/  卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良」とあります。 曽良の句は、今まで「剃捨て」、「かさねとは」の2句掲載されていますが、いずれも後に芭蕉が代作した可能性が高いと考えられますが、この「卯の花」の句は曽良の旅日記俳諧書留に「しら河」と題して「誰人とやらん、衣冠をただしてこの関をこえ玉ふと云事、清輔が袋草紙に見えたり。上古の風雅誠にありがたく覚へ侍て / 卯花をかざしに関のはれぎ哉」とありますので、自作に間違いありません。ただ、須賀川での歌仙のあとに記されていますので、白川の関で詠んだものではないようです。 芭蕉たちは、白河中町の左五左衛門を訪ね「黒羽へ之小袖・羽織・状」を預け、「矢吹へ申ノ上剋ニ着、宿カル。」矢吹宿に泊まります。 私は、中町で白河ラーメンを食し、同じく矢吹に宿を取りました。

2023年6月7日(旧暦四月十九日) 朝霧降ル。元禄二年四月二十日(1689年6月7日)

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  「辰中剋、晴。下剋、湯本ヲ立。」  芭蕉と曽良は8時半くらいでしょうか、湯本を発ち芦野に向かいます。六里ほどの道のりです。私は、出発を那須町民バスの時刻に合わせて黒磯駅までショートカット。黒磯から大田原経由で芦野まで15㎞ほど。芭蕉一行より早く芦野宿に到着、昼食は芭蕉も食べたかもしれない創業380年という丁子屋のうな重。 「清水ながるゝの柳*は、蘆野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。」    田一枚植て立去る柳かな 誰が植えて立去ったのか?については諸説あるようですが、誰であれこの句のポイントは、田面に映る「かげ」ではないかと思いました。 芭蕉はこの日、芦野の留まることなく関東と奥州の境である境の明神を経て、白河の関手前の籏宿まで脚を伸ばしました。三里ほどのゆるい登り道です。私は、当時はなかった芦野温泉に一宿、㏗9.8とかなりのアルカリ泉を体験しました。 *「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」(西行)の歌と能「遊行柳」ゆかりの柳。

2023年6月6日(旧暦四月十八日) 予、鉢ニ出ル。元禄二年四月十九日(1689年6月6日)

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「殺生石は温泉(いでゆ)の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。」とおくのほそ道にありますが、元禄二年四月十九日(1689年6月6日)、芭蕉は湯本の温泉大明神に参拝、那須与一の鏑矢など宝物を拝観のあと、殺生石を見物、泉源を見て回りました。 湯をむすぶ誓も同じ石清水   石の香や夏草赤く露あつし これらのことは、曽良の旅日記四月十九日の条に書かれています。 5月19日の本ブログに「おくのほそ道の途中の曽良の行動や旅日記の謎の数字など、曽良は隠密であったかもと思わせるところがあるようです。」と書きましたが、十九日の日記に「予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス」とあります。曽良*は、神道家吉川惟足の門弟であり、おくのほそ道の旅にあたり、行く先々の神社名などを「延喜式神名帳抄録」としてまとめているほか、日光の段に、「旅立暁、髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。」とありますように、そもそも神道の人で僧形は芭蕉に随行するため身をやつしたものでした。その曽良が、突然「鉢ニ出ル」(托鉢に出る)というのはいかにも怪しく思われます。那須湯本温泉の開湯**は古く飛鳥時代にまで遡り、正倉院文書にも名を残し、近世の温泉番付で東の関脇に位置づけられる人気の名湯でしたので、何らかの調査をしていたのかもしれません。湯本温泉は黒羽藩の支配下にありましたから、もしかしたらプロとして、城代家老浄法寺図書桃雪から何かの調査を頼まれ、そのため家来角左衛門が同伴していたのかもしれません。 *曽良は河合惣五郎、別名岩波庄右衛門とも名乗っており、岩波庄右衛門は後に幕府の巡見使随員となって九州に趣き壱岐で客死しています。 **「鹿の湯」は今も営業しており、入湯料500円で入れます。温度の違う6つの湯舟があります。41、42、43、44、46、48℃です。46度と48度は痺れます。一回目は、46度は5秒で飛び出て、48度は手の指を入れただけでギブアップ。30分後に再挑戦、48度で45秒という大記録を打ち立て、シカゴからやってきた温泉好きの若者に辛うじて勝利しました。

2023年6月5日(旧暦四月十七日) 卯剋、地震ス。元禄二年四月十八日(1689年6月5日)

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334年前の今日、芭蕉は那須の高久で明けがた地震*に遭いましたが、7時過ぎに雨が止み、昼前に宿を発ち、15時頃には湯本温泉和泉屋五左衛門宿**に到着しました。四里ほどの距離で途中まで馬だったようで、道中天気は快晴でした。 曽良の旅日記に「十八日 卯剋、地震ス。辰ノ上剋、雨止。午ノ剋、高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。」とあります。 *黒羽より芭蕉に先行して、おくのほそ道を辿り矢吹宿にいた私は、5月28日の日没後間もなく地震に遭いました。茨城県北部を震源としたもので震度4でしたが、やっぱりびっくりしました。 **この和泉屋は近年まで温泉旅館「和泉屋芭蕉荘」として残っていました。ただ、 安政五年六月(1858年7月)に発生した山津波により湯本は大きな被害を受けましたので、場所は変わっています。 元の場所は、現在の共同浴場「滝の湯」の南隣り辺りに建っていたようです。

2023年6月4日(旧暦四月十六日) 猶宿。雨降。元禄二年四月十七日(1689年6月4日)

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曽良は、 高久「角左衛門方ニ猶宿。雨降。」と旅日記に記しています。 そして、この日に「那須の篠原を訪ねてなほ殺生石を見んと急ぎ侍るほどに雨降り出でければまづこのところにとどまり候/ 落ちくるやたかくの宿の時鳥 翁/ 木の間をのぞく短夜の雨 曾良」との書付を芭蕉は角左衛門に授けましたが、「おくのほそ道」には「野を横に」を選び、高久での時鳥の句は採用しませんでした。

2023年6月3日(旧暦四月十五日) 余瀬ヲ立 元禄二年四月十六日(1689年6月3日)

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  「十六日 天気能。」芭蕉らは滞在十四日に及んだ黒羽・余瀬を出立します。 「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のをのこ、「短冊得させよ」と乞う。やさしき事を望侍るものかなと、/ 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす」と「おくのほそ道」にあります。 芭蕉は、高久に2泊して湯本温泉に向かいます。私は鍋掛街道を黒磯まで行き、高久をショートカットして湯本に向かいました。那須連山からの北風が強く、なかなか歩みがはかどりません。

2023年6月2日(旧暦四月十四日) 昨日之約束 元禄二年四月十五日(1689年6月2日)

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 「十五日 雨止。昼過、翁と鹿助右*同道ニテ図書ヘ参被ル。是ハ昨日之約束故也。」とあり、昨日雨の中、重箱を下げて余瀬の芭蕉を見舞った浄法寺図書こと桃雪邸に芭蕉は趣きました。 「昨日之約束」については確かなことはわかりませんが、俳諧書留に「ばせをに鶴絵がけるに/ サン 鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし 翁」とあります。 桃雪の描いた「芭蕉の木に鶴」の絵に求められて賛を書き入れるため、出かけて行ったのではないかと想像してしまいます。 *鹿子畑助右衛門、翠桃の縁者と思われます。

2023年5月31日(旧暦四月十二日) 那須八幡 元禄二年四月十三日(1689年5月31日)

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この日天気も良く、芭蕉は津久井氏に誘われて、源平合戦の那須与一ゆかりの金丸八幡宮(現那須神社)を参詣しました。那須神社は藩主大関氏の氏神でもありました。 本殿や楼門は、寛永十八年(1641)に大関高増により建替え、手水舟や石灯篭は翌年の寄進で、いずれも元禄二年芭蕉訪問時に参観したものです。 2023年の参拝客はほとんどいませんでした。隣の道の駅にはわりと人が集まっていたのですけど…

2023年5月30日(旧暦四月十一日) 篠原 元禄二年四月十二日(1689年5月30日)

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   昨日より、余瀬の鹿子畑翠桃邸に戻っていた芭蕉を、早速桃雪が見舞い篠原逍遥に誘います。 おくのほそ道には、「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見して、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ」とあります。十二日は昨日からの雨も止みました。 2023年は晴。芭蕉はまだ四日ほど黒羽に滞在しますが、私は一足先に黒羽を出立、那須湯本、芦野から白河の関を越え、矢吹、須賀川、日和田、安積山、二本松、安達ケ原を経て福島に到達しています。旅の報告は芭蕉の行程に合わせて行います。