2023年6月9日(旧暦四月二十一日) かげ沼と云所を行 元禄二年四月二十二日(1689年6月9日) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 6月 14, 2023 「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。」とあります。「按ルニ影沼ハ春夏ノ交、地気蒸シ上テ日ニ映ズル。(略) 田間ノ遊気也。(略)土人、野ヲ名付テ影沼トイフ。」と本(「東遊行嚢抄」)にあるそうです。いわゆる沼ではなく、逃げ水のような蜃気楼だったみたいですね。写真は影沼の面影を残すといわれています矢吹宿はずれの大池の一角です。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
2023年5月16日(旧暦三月二十七日) 芭蕉、旅立つ。元禄二年三月二十七日(1689年5月16日) 5月 16, 2023 芭蕉、旅立つ。 「弥生も末の七日、 明ぼのゝ空朧々として 、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。」と「おくのほそ道」にありますが、この描写はどう考えても二十七日の朝の月にふさわしくありません。なぜ、芭蕉はあえてこのように書いたのかこのたびの間に考えてみたいと思います。 なお、この部分は「源氏物語」光君と空蝉との後朝の有明が下敷きになっています。 今日芭蕉は千住宿から日光街道を歩き、草加宿を通過して春日部迄脚を延ばし、おくのほそ道の第一夜を春日部宿とします。私もいま同地に居ますが、芭蕉も今夜春日部のどこかの宿で寛いでいるはずです。 「 其日漸草加 と云宿にたどり着にけり」と芭蕉はおくのほそ道の第一日目の宿を草加としました。なぜ事実通りカスカベにしなかったのでしょうか。この謎についても考えてみたいと思います。 左の写真は、日光街道に大切にされ植え継がれている草加の松並木です。今日歩いていますと、ほんの一刻ほど前に芭蕉さんが通って行かれたよって声が聞こえたようでした。 続きを読む
2023年10月2日(旧暦八月十八日) 路通 元禄二年八月十九日(1689年10月2日) 10月 10, 2023 「翁の行脚をこの港まで出でむかひて / 目にたつや海青々と北の秋」という句を、路通は残しています。色の浜に行った気配はありませんので、芭蕉が戻った十七日頃に迎えに来たとしておきます。 気比の松原に立って、色の浜方面を見やって詠んだのかもしれません。 結局、芭蕉と共に天屋に二泊し、十九日大垣に向けて敦賀を発ちました。路通は、当初おくのほそ道の旅随行者の有力候補でした。 「露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。」 続きを読む
2023年10月27日(旧暦九月十三日) 一栄に逢ふ 元禄二年九月十五日(1689年10月27日) 5月 15, 2024 前日より「悪寒」を訴え、この日朝早く逗留していた島崎又玄味右衛門宅を発ち長島に戻ることになった曽良を、芭蕉と路通は途中まで見送りました。 (左写真は外宮の宮町に現存する旧御師丸岡宗太夫邸) 「十五日 卯ノ刻味右衛門宅ヲ立、翁路通中ノ郷迄被送」と曽良は日記に残しています。続けて「高野一栄道ニテ逢フ小幡ニ至テ朝飯ス」とあり、なんとあの出羽の国最上川の船問屋で、おくのほそ道の旅で彼の邸に3泊「五月雨を集めて」の歌仙を巻いた大石田の一栄*に遭遇したと書いています。 あまり驚いているようには感じられませんので、一栄が御遷宮に合わせて伊勢に来ていたことを知っていたのでしょう。とすれば、芭蕉が木因に書き送った「拙者門人供十人計り参詣」の一員に一栄もいたのです。一栄は曽良からの連絡に応じ、芭蕉を慕って遥々出羽の国からやってきたのかもしれません。このようなこともあり、 「 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。」と芭蕉をして書かしめたのです。 *7月15、16日の項ご覧ください。 なお、山寺から引き返した芭蕉と曽良を大石田入口で出迎えたのは五十四歳の一栄でした。今にも雨が降りそうな「重く垂れ下がった空を見上げながら、ずっとここで待ち続けていたようだ。この初老の俳人がどんなに芭蕉を待ち望んでいたか、その気持ちは芭蕉にも伝わったことだろう。」(金森敦子「『曽良旅日記』を読む」) 続きを読む
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