2023年6月9日(旧暦四月二十一日) かげ沼と云所を行 元禄二年四月二十二日(1689年6月9日) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 6月 14, 2023 「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。」とあります。「按ルニ影沼ハ春夏ノ交、地気蒸シ上テ日ニ映ズル。(略) 田間ノ遊気也。(略)土人、野ヲ名付テ影沼トイフ。」と本(「東遊行嚢抄」)にあるそうです。いわゆる沼ではなく、逃げ水のような蜃気楼だったみたいですね。写真は影沼の面影を残すといわれています矢吹宿はずれの大池の一角です。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
2023年11月3日(旧暦九月二十日) 二見と蛙 元禄二年九月二十二日(1689年11月3日) 5月 17, 2024 九月二十二日芭蕉が江戸の杉風に書いた手紙の一部が切り取られ、文末部が軸装されて伝わっています。その末尾「蛤のふたみへ別行秋ぞ」のあとに 、詠まれた日は特定できませんが 「二見 硯かと拾ふやくぼき石の露 / 先如此 ( かくのごとく ) に候。以上 / 九月二十二日 ばせを」と 近作を記しています。蛤の句は「ふたみ に 」と直して大垣から伊勢神宮に向かう「おくのほそ道」末尾に収録されていますが、正式な参宮にはまず二見浦で潔斎するというしきたりを意識して二見を詠んだものと思います。 なお、芭蕉のこれら二見の句はいずれも西行に因んだものです。* *西行の「今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを見あはせしとておほふなりける」や「『西行談抄』(寛文九年刊)に、西行が二見浦の草庵を結んだ折、『硯は、石のわざとにはあらで、もとより水入るる所などくぼみて硯のやうなる」ものを備えたとある。」等によります。また蛤の句は、西行「月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして」に拠ったと思える「 今朝こそは 開ても見つれ 玉匣(たまくしげ) ふたよりみより 淚流して」(金葉和歌集 律師實源)を踏まえています。 硯の句は、曽良が体調を崩して長島に戻る前日、十四日に「岩戸月夜見ノ森へ詣て」と日記にあり、おそらくの二見の「天の岩屋**」と外宮の「月夜見宮***」の事ですから、その日の詠であったかもしれません。 ** 左写真は二見浦の「天の岩屋」 文治二年(1186年)東大寺衆徒参詣記にあるという 「 おもしろく見ゆる二見の浦はかな岩戸のあけし昔ならねど 慶尊」の和歌が掲げられています。 *** 内宮の方は「月読宮」と表記します。 芭蕉はこの年二見の句をもう一句詠んでいます。「二見の図を拝み侍りて うたがふな潮の花も浦の春」(元禄三年四月刊「いつを昔」)で、元禄二年正月、前年末に仕上がってきた文台****の西行ゆかりの 二見夫婦岩と扇面の絵を詠んだものです。(実は前年末にも二見の句を詠んでいました。「皆拝め二見の七五三(しめ)をとしの暮」です。)そして芭蕉は、おくのほそ道の旅に出る前に愛用の文台裏に「ふたみ うたかふなうしほの花も浦のはる 元禄二仲春 芭蕉」と書き記したのです。 **** 「文台」は俳諧の時執筆の前に置く懐紙を載せる台で、師から弟子に引き継がれていきます。こ... 続きを読む
2023年10月4日(旧暦八月二十日) 関ヶ原 元禄二年八月二十一日(1689年10月4日) 10月 14, 2023 芭蕉は北国脇往還の春照宿に泊ったのではないかと推定されていますが、確証はありません。関ヶ原宿の二つ手前で、木ノ本と大垣のちょうど中間にあたる宿場です。「春照」は「すいじょう」と読みます。 北国脇往還は平地でもくねくねと曲がりが多く、かつ現在では農地化等により失われている箇所もあって辿りづらい街道です。とくに春照宿から藤川宿、関ヶ原にかけて山道に入るため方向余計にわかりにくく道を2度間違えました。関ヶ原合戦の時、特に西軍の将兵は苦労したのではないかと思いました。 関ケ原合戦は、松尾山に陣を置いた西軍小早川秀秋*の寝返りが、東軍の勝利決定要因だといわれます。秀秋は、秀吉の正室北政所の甥にあたり秀吉の養嗣子となり、天正十九年(1591)9歳で従三位権中納言に叙任されましたが、2年後に淀君(茶々)が秀頼を生んだため、翌文禄三年(1594)小早川家に養子に出された人です。関ケ原の6年前のことです。 *関ヶ原合戦では、秀秋の異母兄木下勝俊(長嘯子)は東軍、実父の家定は中立の立場でした。また、松尾芭蕉の主家筋である藤堂高虎は東軍の中核として戦い、前田家は利家が前年亡くなり長男利長が東軍、次男利政が西軍でした。 おくのほそ道にも他の俳文においても、芭蕉は関ケ原の戦いなどのことには一切触れていません。 はばかられるものがあったのでしょう… 元禄三年(1690)八月板の「俳諧生駒堂」に「平泉古戦場 路通か語りしを聞て / 夏艸や兵ともの夢の跡」が、おそらく芭蕉には無断で掲載されています。路通が直接編者か鬼貫かに提供したものではないかと思っています。 この有名句は、曽良旅日記・俳諧書留には記載されていませんので、高館で詠んだ句ではありません。じつは、当時としてはまだ記憶に新しい戦いの地を行く、路通が随行する敦賀から大垣への旅の途中に出来たものではないかと、わたしは想像しています。 続きを読む
2023年5月16日(旧暦三月二十七日) 芭蕉、旅立つ。元禄二年三月二十七日(1689年5月16日) 5月 16, 2023 芭蕉、旅立つ。 「弥生も末の七日、 明ぼのゝ空朧々として 、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。」と「おくのほそ道」にありますが、この描写はどう考えても二十七日の朝の月にふさわしくありません。なぜ、芭蕉はあえてこのように書いたのかこのたびの間に考えてみたいと思います。 なお、この部分は「源氏物語」光君と空蝉との後朝の有明が下敷きになっています。 今日芭蕉は千住宿から日光街道を歩き、草加宿を通過して春日部迄脚を延ばし、おくのほそ道の第一夜を春日部宿とします。私もいま同地に居ますが、芭蕉も今夜春日部のどこかの宿で寛いでいるはずです。 「 其日漸草加 と云宿にたどり着にけり」と芭蕉はおくのほそ道の第一日目の宿を草加としました。なぜ事実通りカスカベにしなかったのでしょうか。この謎についても考えてみたいと思います。 左の写真は、日光街道に大切にされ植え継がれている草加の松並木です。今日歩いていますと、ほんの一刻ほど前に芭蕉さんが通って行かれたよって声が聞こえたようでした。 続きを読む
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