2023年6月6日(旧暦四月十八日) 予、鉢ニ出ル。元禄二年四月十九日(1689年6月6日)

「殺生石は温泉(いでゆ)の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。」とおくのほそ道にありますが、元禄二年四月十九日(1689年6月6日)、芭蕉は湯本の温泉大明神に参拝、那須与一の鏑矢など宝物を拝観のあと、殺生石を見物、泉源を見て回りました。

湯をむすぶ誓も同じ石清水   石の香や夏草赤く露あつし

これらのことは、曽良の旅日記四月十九日の条に書かれています。

5月19日の本ブログに「おくのほそ道の途中の曽良の行動や旅日記の謎の数字など、曽良は隠密であったかもと思わせるところがあるようです。」と書きましたが、十九日の日記に「予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス」とあります。曽良*は、神道家吉川惟足の門弟であり、おくのほそ道の旅にあたり、行く先々の神社名などを「延喜式神名帳抄録」としてまとめているほか、日光の段に、「旅立暁、髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。」とありますように、そもそも神道の人で僧形は芭蕉に随行するため身をやつしたものでした。その曽良が、突然「鉢ニ出ル」(托鉢に出る)というのはいかにも怪しく思われます。那須湯本温泉の開湯**は古く飛鳥時代にまで遡り、正倉院文書にも名を残し、近世の温泉番付で東の関脇に位置づけられる人気の名湯でしたので、何らかの調査をしていたのかもしれません。湯本温泉は黒羽藩の支配下にありましたから、もしかしたらプロとして、城代家老浄法寺図書桃雪から何かの調査を頼まれ、そのため家来角左衛門が同伴していたのかもしれません。

*曽良は河合惣五郎、別名岩波庄右衛門とも名乗っており、岩波庄右衛門は後に幕府の巡見使随員となって九州に趣き壱岐で客死しています。

**「鹿の湯」は今も営業しており、入湯料500円で入れます。温度の違う6つの湯舟があります。41、42、43、44、46、48℃です。46度と48度は痺れます。一回目は、46度は5秒で飛び出て、48度は手の指を入れただけでギブアップ。30分後に再挑戦、48度で45秒という大記録を打ち立て、シカゴからやってきた温泉好きの若者に辛うじて勝利しました。

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