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2023年11月3日(旧暦九月二十日) 二見と蛙 元禄二年九月二十二日(1689年11月3日)

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九月二十二日芭蕉が江戸の杉風に書いた手紙の一部が切り取られ、文末部が軸装されて伝わっています。その末尾「蛤のふたみへ別行秋ぞ」のあとに 、詠まれた日は特定できませんが 「二見 硯かと拾ふやくぼき石の露 / 先如此 ( かくのごとく ) に候。以上 / 九月二十二日  ばせを」と 近作を記しています。蛤の句は「ふたみ に 」と直して大垣から伊勢神宮に向かう「おくのほそ道」末尾に収録されていますが、正式な参宮にはまず二見浦で潔斎するというしきたりを意識して二見を詠んだものと思います。 なお、芭蕉のこれら二見の句はいずれも西行に因んだものです。*  *西行の「今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを見あはせしとておほふなりける」や「『西行談抄』(寛文九年刊)に、西行が二見浦の草庵を結んだ折、『硯は、石のわざとにはあらで、もとより水入るる所などくぼみて硯のやうなる」ものを備えたとある。」等によります。また蛤の句は、西行「月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして」に拠ったと思える「 今朝こそは 開ても見つれ 玉匣(たまくしげ) ふたよりみより 淚流して」(金葉和歌集 律師實源)を踏まえています。 硯の句は、曽良が体調を崩して長島に戻る前日、十四日に「岩戸月夜見ノ森へ詣て」と日記にあり、おそらくの二見の「天の岩屋**」と外宮の「月夜見宮***」の事ですから、その日の詠であったかもしれません。 ** 左写真は二見浦の「天の岩屋」 文治二年(1186年)東大寺衆徒参詣記にあるという 「 おもしろく見ゆる二見の浦はかな岩戸のあけし昔ならねど 慶尊」の和歌が掲げられています。   *** 内宮の方は「月読宮」と表記します。 芭蕉はこの年二見の句をもう一句詠んでいます。「二見の図を拝み侍りて うたがふな潮の花も浦の春」(元禄三年四月刊「いつを昔」)で、元禄二年正月、前年末に仕上がってきた文台****の西行ゆかりの 二見夫婦岩と扇面の絵を詠んだものです。(実は前年末にも二見の句を詠んでいました。「皆拝め二見の七五三(しめ)をとしの暮」です。)そして芭蕉は、おくのほそ道の旅に出る前に愛用の文台裏に「ふたみ  うたかふなうしほの花も浦のはる   元禄二仲春 芭蕉」と書き記したのです。 **** 「文台」は俳諧の時執筆の前に置く懐紙を載せる台で、師から弟子に引き継がれていきます。この元禄二

2023年10月27日(旧暦九月十三日) 一栄に逢ふ 元禄二年九月十五日(1689年10月27日)

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  前日より「悪寒」を訴え、この日朝早く逗留していた島崎又玄味右衛門宅を発ち長島に戻ることになった曽良を、芭蕉と路通は途中まで見送りました。 (左写真は外宮の宮町に現存する旧御師丸岡宗太夫邸) 「十五日 卯ノ刻味右衛門宅ヲ立、翁路通中ノ郷迄被送」と曽良は日記に残しています。続けて「高野一栄道ニテ逢フ小幡ニ至テ朝飯ス」とあり、なんとあの出羽の国最上川の船問屋で、おくのほそ道の旅で彼の邸に3泊「五月雨を集めて」の歌仙を巻いた大石田の一栄*に遭遇したと書いています。  あまり驚いているようには感じられませんので、一栄が御遷宮に合わせて伊勢に来ていたことを知っていたのでしょう。とすれば、芭蕉が木因に書き送った「拙者門人供十人計り参詣」の一員に一栄もいたのです。一栄は曽良からの連絡に応じ、芭蕉を慕って遥々出羽の国からやってきたのかもしれません。このようなこともあり、 「 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。」と芭蕉をして書かしめたのです。 *7月15、16日の項ご覧ください。 なお、山寺から引き返した芭蕉と曽良を大石田入口で出迎えたのは五十四歳の一栄でした。今にも雨が降りそうな「重く垂れ下がった空を見上げながら、ずっとここで待ち続けていたようだ。この初老の俳人がどんなに芭蕉を待ち望んでいたか、その気持ちは芭蕉にも伝わったことだろう。」(金森敦子「『曽良旅日記』を読む」)

2023年10月27日(旧暦九月十三日) 谷木因 元禄二年九月十五日(1689年10月27日)

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 「此度さまざま御馳走、誠以痛入辱(かたじけなく)奉存候。爰元へ御参詣被成候にやと心待に存候処、いかが被成候哉、御沙汰も無御坐、御残多。云々」と、九月十五日付で芭蕉は大垣の木因宛に参拝の報告、また美濃に行った折にはお目にかかりたと手紙を書いています。 芭蕉と木因とのつながりは、木因や荊口ら大垣俳人が連座した延宝八年(1680)七月興行の「大垣鳴海桑名名古屋四ツ替り」百韻(鳴海の下里知足主催)の加点を、江戸の芭蕉(当時桃青)に受けたことを縁となり、翌九年江戸に下った木因と芭蕉は連句を巻きました。この時、木因の山口素堂訪問に芭蕉も同席し三つ物を残しています。そもそも木因は芭蕉は初対面でしたが、素堂とは同じ北村季吟門下で以前からの知己であったようです。  芭蕉と素堂は延宝二年(1673)以来の俳友です。 芭蕉はこれをきっかけに木因との交遊が始まり、貞享元年(1684)の野晒紀行の途次には「かねてからの約束に従って大垣の木因を訪ね」て、木因亭に長期滞在します。木因はおおいに歓迎、芭蕉と地元の俳人との取り持ち歌仙を巻いたり、芭蕉に同道して尾張や伊勢も訪れ二人で句を残すなどしています*。このような良好な関係はおくのほそ道の旅が終わる頃まで続いていたようですが、本書簡以降の両者間の書簡は残っていません**。上記の伊勢からの手紙にも関わらず、元禄四年十月江戸への帰路の途中大垣での半歌仙興行にどういうわけか木因は連座していませんし、芭蕉は木因亭に立ち寄った様子もないなど、急激に疎遠になったように感じられます。大垣における芭蕉の有力な支援者であったにもかかわらず「おくのほそ道」に木因の名がないのは、やはり不思議です。 左の写真は、野晒の旅の折芭蕉大垣来訪を歓迎して木因が建てたという俳句仕立ての道しるべです。「南いせくわなへ十りさいかう(在郷)みち」と標されています。「桑名へ」と春の季語「桑植う」の子季語になるのでしょうか「桑苗」が懸けられているそうです。なお、この道標は複製で、実物は前に建っています「奥の細道むすびの地記念館」に展示されています。 芭蕉は木因を、加点を求められて始まった関係ですから弟子***として遇していましたが、木因の思いはすこし違ったようです。木因は芭蕉より二歳年長で、延宝四年の季吟「続連珠」に発句五、付句六が入集するなど実績もあり俳諧宗匠として立机もしましたので、

2023年10月25日(旧暦九月十一日) 遷御の儀 元禄二年九月十三日(1689年10月25日)

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昨夜から山田西河原(現在の伊勢市宮後1丁目辺り)の嶋崎味右衛門又玄(ゆうげん)宅に泊っていた芭蕉一行は、朝から内宮参宮して14時頃に戻り、夕方いよいよ外宮の遷御の儀参拝するため二人の御師の案内されます。なお、内宮の遷御の儀は十日でした。 「暮前より神前詰。子ノ刻前御船渡ル、神宝ハ夕方ヨリ運ブ。月ノ気色カンニ(完爾)タリ。」と曽良は書き残しています。 御神体は深夜に新宮に遷られます。時あたかも後の月*(旧九月の十三夜)。浄闇の中白麻の道敷布の上をを厳かに進む渡御御列を煌々と浮かび上がらせたかもしれません。御神体は絹垣と呼ばれる大在の神官たちが捧げ持つ白絹の長大な布の目隠しによって守られています。 「内宮はことおさまりて、外宮のせんぐうおがみ侍りて / たふとさにみなおしあひぬ御遷宮」と芭蕉は詠んでいます。 初秋の月七月十五日は楽しみにしていた金沢にやっとの思いで着いたものの、心頼りにしていた一笑の死を知らされて月どころではなく、敦賀の名月は雨に降られ、此の地伊勢での後の月は一入芭蕉の心に沁みたのではないでしょうか。又玄宅への帰り道、いっそう気分が高ぶったかもしれません。宿に帰ってもあれこれ話が盛り上ったものと思います。「さのみ笑ひて散々に成り申し候。」と十五日付で木因に十一日の「神楽拝」の様子を書き送っていますが、この日も同様だったでしょう…。「月さびよ明智が妻の話せん  又玄子妻のまゐらす」** 2023年は10月27日が旧九月十三日にあたります。 * 後の月は、 中秋の芋名月に対して栗名月、豆名月とも呼ばれ、その時期旬のお供え物に因むと言われます。では、なぜ十三夜月かというと、芋・栗・豆の断面形状からきているのではないかと思います。酒田近江屋玉志亭での芭蕉句に「初真桑四にや断ン輪に切ン」があります。名月は 芋・栗・豆を輪に切らんです。十分太った 芋・栗・豆に限りますけど…。2023年10月27日、日本列島は高気圧に覆われています、栗名月見れそうです。  **ひと月ほど前の丸岡称念寺門前の明智の昔話も披露して、夜更けに詠んだものと思います。9月22日の項も参照ください。

2023年10月22日(旧暦九月八日) 久居 元禄二年九月十日(1689年10月22日)

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前日快晴の長島を出船、8時頃桑名で舟を下りた芭蕉一行は、「壱リ餘暗」い中を歩き津に到着、宿泊しました。桑名七里の渡しから津迄は11里半の距離です。そして内宮遷宮式の今日十日、津から一里半ほどの久居の超善寺に移動して一泊します。 左写真は超善寺の近くにあって往時の面影を残す天心寺。 六日に木因は長島まで送ってきましたが、「(略)長島といふ江によせて立わかれし時 荻ふして見送り遠き別哉」と残しており、大智院には泊まらなかったようです。木因は廻船問屋でしたから対岸にあたる桑名にも店があったのかもしれません。しかし曽良の旅日記の七日の条によりますと「木因来」とありますから、大智院に戻ってきます。貞享元年(1684)と同様木因は、伊勢まで芭蕉に同行するつもりだったのではないでしょうか。十日が内宮遷宮式に間に合うように…。ところが芭蕉は雨を理由に出発しませんでした。「八日 雨降ル故発足延引俳有トモ病気発シテ平臥ス」と旅日記にあり、遷宮式に向かわず七日にはじめた「一泊り」歌仙の続きを巻いたのだと思われます。この歌仙の後半には木因、曽良は参加していません…。 久居は藤堂津藩の支藩で、城は結局建設されませんでしたが五万三千石の城下町で、10月18日の条に書きました元禄の伊勢遷宮奉行藤堂高通が藩主でした。芭蕉は何度も久居には寄っており、嫁いだ姉がいたともいわれ、家臣にも松尾姓が何家か見られることから知り合いもいて馴染みのところ*だったと思います。 *元禄五年十一月二十七日付兄半左衛門宛の手紙に「さてもさても難儀仕候段、(略) 先久ゐ(居)へはさたなしに仕候。あんじられて候而益なき事に候間云々」と3年余後の手紙ですが、久居で家族関係のなにか心配事起こっていたのかもしれません。元禄二年正月十七日付半左衛門宛の末尾に「七郎左衛門方あねじや人、御無事に御座候哉。」とあります。なお、左写真は久居陣屋跡の高通児童公園。

2023年10月18日(旧暦九月四日) むすびの地 元禄二年九月六日(1689年10月18日)

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「長月六日になれば、伊勢の遷宮*おがまんと、又舟にのりて、/ 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ」と書き出された「おくのほそ道」は、このように結ばれ、「蛤の」句は結びの句ととして、「弥生も末の七日、(中略) 千しゅと云所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。/ 行春や鳥啼魚の目は泪 / 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。」の旅立ちの「矢立初めの「行春を」句を受けているとともに、又そこに繋がっていきます。 物語は円環を成しています… 結局、芭蕉は八月二十一日に大垣に到着、滞在十五日間に及び、今日木因等富裕な商人たちが店を構える船町の川港から、多くの門弟が見送るなか伊勢に向けた出発しました。如行、木因、曽良、路通は同船しており、越人は港で見送りました。 この日、芭蕉は長島の大智院**に泊り、地元俳人や木因、曽良、路通等と七吟歌仙などを巻き、結局三泊することになります。この時、「伊勢の国長島、大智院に信宿す 憂きわれを寂しがらせよ秋の寺」の色紙を残しています。おくのほそ道の旅を無事終えた芭蕉に「憂き」思いをさせたのは何だったんでしょう… *如水にも説明、「おくのほそ道」本文にも書いていますように、今回の旅立ちは伊勢遷宮参拝の為でした。おくのほそ道のあと、伊勢に参宮することはかなり以前から決めていたことだと思います。芭蕉は前年にも伊勢に参宮していますし、そもそもこの元禄の遷宮の奉行は芭蕉の主家筋である久居藩主の藤堂佐渡守高通でしたので、関係者も芭蕉の知り合いの中にいたかもしれません。内宮の遷宮式は九月十日、外宮は十三日でしたので、大垣はその日に間に合うよう出立しましたが、どういうわけか寄り道して伊勢山田に着いたのは十一日でした。そもそも芭蕉は遷宮式の日には参宮したくなかったのではないかとわたしは疑っています。  **大智院の院主は第四世良成(秀精法師)は、曽良の叔父にあたり、山中温泉で芭蕉に別れ先行した曽良は、八月十五日から九月朔日まで滞在、療養していました。 高通は任口***という俳号を持ち芭蕉に先立って北村季吟から「埋木」伝授を受けており、伊勢神宮神官にも季吟門がいること、この年季吟は幕府歌学方に取り立

2023年10月17日(旧暦九月三日) 南蛮酒 元禄二年九月五日(1689年10月17日)

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芭蕉のもとに戸田如水からの餞別が届き、南蛮酒と紙子でした。昨日の会談で使い古した紙衾を竹戸に与えたことも話題に上ったものと見えます。 「如水日記抄」九月五日の条に、「芭蕉・路通明日伊勢の地へ越ゆる由申すに付き、風防のため南蛮酒一樽・紙子二表、両人の頭巾等の用意に仕り候様に、旅宿の亭主竹島六郎兵衛ところまで申し遣はし畢(をはん)ぬ。」とあります。 この「南蛮酒」なんですが、じつは芭蕉はこの時だけではなくて元禄七年にも「南蛮酒」を送られています。同年八月十四日付の大津智月宛の芭蕉の礼状が残っています。「御みまひとして長蔵下され、ことには南蛮酒一樽、麩二十おくりくだされ、忝くぞんじまいらせそろ。十五日、月見客御ざ候ところ、一入(ひとしほ)々々御うれしくぞんじまいらせそろ。(略)」 これらを読んだときは芭蕉もワインを飲んだのだと嬉しくなって、如水日記抄に「風防のため」とありますのでポートワインを薬代わりにとかさまざま想像していました。長崎の出島にはイスパニアやフランスのワインがオランダ東インド会社によって持ち込んでいましたから、その可能性はなくはありません。オランダ商館は、高級役人を葡萄酒・オランダ酒で饗応してましたし、長崎奉行等への贈り物として「葡萄酒20ℓ一樽」といった記録も残っています。しかし、南蛮渡りの葡萄酒はいくら裕福であっても手に入れるのは無理だったと思われ、残念ながらこの「南蛮酒一樽」ワインでない可能性が高いと考えざるを得ません。 じつは、寛永十四年( 1637 年)、初代・大倉治右衛門が創業した伏見の「笠置屋」はいろいろな酒を造っており、18世紀初めには焼酎と味醂から造った「南蛮酒」が京名物になっていたようです。この南蛮酒については貝原益軒も触れており*、今の月桂冠・大倉家の古文書にも記載されているそうです。 芭蕉がおくられたのは、この伏見大倉家の「南蛮酒」だと思います。 *「養生訓」正徳三年(1713)刊 巻四「飲酒」において「焼酒(焼酎のこと)は大害あり。多く飲べからず。火を付てもえやすきを見て、大熱なる事を知るべし。夏月は(略)少のんでは害なし。他月はのむべからず。焼酒にてつくれる薬酒多く吞むべからず。猶辛熱甚し。異国より来る酒のむべからず。性しれず、いぶかし。(略) 大寒の時も焼酒をあたゝめて飲むべからず。大に害あり。京都の南蛮酒も焼酒にて作る。焼酒

2023年10月16日(旧暦九月二日) 大垣藩家老 元禄二年九月四日(1689年10月16日)

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芭蕉は大垣藩家老の戸田如水の下屋敷に招かれ、如行等が同行しました。 如水はこの日の日記に、「桃青事 門弟等ハ芭蕉ト呼 、如行方に泊り、所労昨日より本復の旨承るに付き、種々申し、他者(よそもの)故、室*下屋にて、自分病中といへども忍びにて初めて之を招き対顔。その歳四拾六、生国は伊賀の由。路通と申す法師、能登の方にて行き連れ、同道に付き、是にも初めて対面。(略) 家中士衆に先約**これ有る故、暮時より帰り申し候。然れ共、両人共に発句書き残し、自筆故、下屋の壁に之を張る。 尾張地の越人・伊勢路の曽良両人に誘引せられ、近日大神宮御遷宮これ有る故、拝みに伊勢の方へ一両日の内におもむくといへり。今日芭蕉躰は布裏の木綿小袖 帷子を綿入とす、墨染 、細帯に布の編服。路通は白き木綿の小袖。数珠を手に掛くる。心底計り難けれども、浮世を安く見なし、諂(ヘつら)はず奢らざる有様也。」と書き残しています。 日記にある「両人共に発句書き残し」は、芭蕉の発句「こもり居て木の実草の実拾はばや」に、脇を如水が「御影たづねん松の戸の月」と付け、第三は如行の「思ひ立旅の衣をうちたてゝ」、以下「水さわさわと舟の行跡 伴柳、ね所さそふ烏はにくからず 路通、峠の鐘をつたふこがらし 誾(ぎん)如」の六吟一巡連句と、路通、如水、芭蕉の三吟三物でした。これらを芭蕉と路通が書き分けて贈ったものを、如水は壁に張ったのでしょう。日記の結びも含め、如水の芭蕉に対する好意がが感じられます。事前に如行がだいぶレクチャーしていたのでしょうか… *如水の下屋敷は、如行宅と同じ室にあったの近くだったのかもしれません。如行は元大垣藩士で、俳号からも伺えますように如水とは位は違っても俳友だったのでしょう。 **芭蕉門弟には前川、荊口父子等多くの大垣藩士がおり、この夜も藩士である浅野源兵衛左柳邸で、木因、越人、曽良等も連座する十二吟歌仙興行が予定されていました。発句は芭蕉の「はやう咲九日も近し宿の菊」でした。

2023年10月11日(旧暦八月二十七日) 虚空蔵さん 元禄二年八月二十八日(1689年10月11日)

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  二十八日、大垣に滞在していた芭蕉は美濃赤坂の明星輪寺(地元では今も虚空蔵さんと呼ばれ、毎朝標高200mを越える金生山のきつい坂を上るお年寄りの姿が絶えません。)を参詣します。大垣から美濃路、養老街道を経て二里ほどの距離です。芭蕉は貞享元年「野晒紀行」の途次に、もしかしたら寄っていたのではないかと思います。 金生山からは岐阜、大垣、関ヶ原は一望のもとに見渡せ、関ケ原などの戦いの時の重要な物見地点だったかもしれません。そう思わせるような開けた視界でした。 「赤坂の虚空蔵にて、八月二十八日、奥の院/ 鳩の声身に入(し)みわたる岩戸哉」 明星輪寺の本堂は岩山に建て掛けて建築されており、御本尊の虚空蔵菩薩は大蛇がとぐろを巻いたように見える岩の洞窟の中におられます。 虚空蔵さんは大垣藩主戸田氏の祈祷所でしたから、芭蕉が訪れた頃には既に賑わっていたそうです。

2023年10月4日(旧暦八月二十日) 大垣・紙衾 元禄二年八月二十一日(1689年10月4日)

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「駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、その外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。*」(おくのほそ道) 「三百余里の険難をわたり、終に頭をしろくしてみのゝ国大垣の府にいたる。」(紙衾ノ記) 芭蕉は、元禄二年八月二十一日に大垣到着し、三月二十七日深川を出発して以来のおくのほそ道の旅を終えました。十四日に曽良が前触れしていましたので、大勢の弟子が出迎えた事でしょう。 芭蕉は、天満宮の西北にあたる室の如行宅を宿とします。現在の蛭子神社辺りにあったそうです。 おくのほそ道本文では、曽良も越人も到着の日に駆けつけたようにも読めますが、、曽良が長島から大垣に戻ったのは九月三日、越人は「予ニ先達テ越人着」と旅日記にあることから曽良より少し早く到着してしていたものと思われます。 曽良と越人を加え、如行、荊口父子、左柳、木因らとの「はやう咲九日も近し宿の菊」(芭蕉)を発句にした十二吟歌仙が巻かれたのは四日のことでした。 *芭蕉は、大垣で疲れた足や体を揉んで労わってくれた如行の弟子竹戸(鍛冶屋だったそうです)、礼として旅で使った自らの紙子を、「紙衾ノ記」と共に与えます。「(略)如行が門人に竹戸といふ者ありて、其衾に此記を得て、今も其家の宝とす。路通も、越人も、其記をかきて、竹戸が幸をうらやまれけるとぞ。(略)」と支考が書き残しています。じつは路通と越人だけでなく如行や曽良も記を残しており、句を詠んでいます。 「古きまくら、古きふすまは、貴妃がかたみより伝えて、恋といひ哀傷とす。(略) いでや此紙のふすまは、恋にもあらず、無常にもあらず。蜑の苫屋の蚤をいとひ、駅(うまや)はにふのいぶせさを思ひて、出羽の国最上といふ所にて、ある人のつくり得させたる也。(略)なをも心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれと、我をしとふ物にうちくれぬ。」(芭蕉) 「(略)あへて汝そこなふ事なかれ。身を終るまで愛して、終に棺中にしけとぞ爾云。/ ものうさよいづくの泥ぞ此衾 如行拝」、「(略) 此紙衾ひとつは、みちのくのきさがたあたりより(略)つかれたる肩にかけ、ほそりたる腰につけて、はるばるとみのゝ国までのぼりつき給ふを、竹戸というふおのこにゆづりあたへける也。(略)紙とのりとのさかひは日を追てはなれ

2023年10月4日(旧暦八月二十日) 関ヶ原 元禄二年八月二十一日(1689年10月4日)

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芭蕉は北国脇往還の春照宿に泊ったのではないかと推定されていますが、確証はありません。関ヶ原宿の二つ手前で、木ノ本と大垣のちょうど中間にあたる宿場です。「春照」は「すいじょう」と読みます。 北国脇往還は平地でもくねくねと曲がりが多く、かつ現在では農地化等により失われている箇所もあって辿りづらい街道です。とくに春照宿から藤川宿、関ヶ原にかけて山道に入るため方向余計にわかりにくく道を2度間違えました。関ヶ原合戦の時、特に西軍の将兵は苦労したのではないかと思いました。 関ケ原合戦は、松尾山に陣を置いた西軍小早川秀秋*の寝返りが、東軍の勝利決定要因だといわれます。秀秋は、秀吉の正室北政所の甥にあたり秀吉の養嗣子となり、天正十九年(1591)9歳で従三位権中納言に叙任されましたが、2年後に淀君(茶々)が秀頼を生んだため、翌文禄三年(1594)小早川家に養子に出された人です。関ケ原の6年前のことです。 *関ヶ原合戦では、秀秋の異母兄木下勝俊(長嘯子)は東軍、実父の家定は中立の立場でした。また、松尾芭蕉の主家筋である藤堂高虎は東軍の中核として戦い、前田家は利家が前年亡くなり長男利長が東軍、次男利政が西軍でした。 おくのほそ道にも他の俳文においても、芭蕉は関ケ原の戦いなどのことには一切触れていません。 はばかられるものがあったのでしょう… 元禄三年(1690)八月板の「俳諧生駒堂」に「平泉古戦場 路通か語りしを聞て / 夏艸や兵ともの夢の跡」が、おそらく芭蕉には無断で掲載されています。路通が直接編者か鬼貫かに提供したものではないかと思っています。 この有名句は、曽良旅日記・俳諧書留には記載されていませんので、高館で詠んだ句ではありません。じつは、当時としてはまだ記憶に新しい戦いの地を行く、路通が随行する敦賀から大垣への旅の途中に出来たものではないかと、わたしは想像しています。

2023年10月3日(旧暦八月十九日) 小谷城 元禄二年八月二十日(1689年10月3日)

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芭蕉は木ノ本宿を出発、北国脇往還を進みます。長浜を通り琵琶湖東岸沿いに南下して京に向かう北国街道(中山道信濃追分から別れ善光寺から直江津に向かう江戸幕府が整備した街道も北国街道といいますので、信濃・近江と区別したり、こちらを旧北国街道と呼んだりしているようです。なお、古代から畿内と敦賀を通り越の国をつなぐ道は「北陸道」で、北国街道と重なる所も多く呼称が混在しています。)と木ノ本で別れ中山道関ヶ原宿に向かう街道が北国脇往還(信濃の北国街道は北国脇往還との呼び名もあるようでややこしい。ただ、江戸時代は近江の北国街道と北国脇往還はどちらも「北国海道」と呼ばれていたとのこと。)です。 どの車も滋賀ナンバーなのに小さな驚きを感じ、なぜか戻ってきたんだと想いました… 写真右:小谷城址、中:お市の方と浅井三姉妹、右:姉川の古戦場  小谷城は浅井三代の居城で城下町は整備され賑わっていましたが、浅井長政が信長に攻め滅ぼされた後、秀吉は戦功により拝領した長浜にその中心部を移転させました。長浜市大谷市場町(現元浜町)は小谷城下町から移された町だそうです。

2023年10月2日(旧暦八月十八日) 刀根越え 元禄二年八月十九日(1689年10月2日)

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芭蕉の敦賀から大垣への行程は、日程・ルートともはっきりしませんが、わたしは、刀根越えで北国街道に入り、余呉湖経由木ノ本宿、そのあと北国脇往還から中山道関ヶ原宿、垂井追分を美濃路にとり、芭蕉は大垣を目指したとの説です*。 刀根越えは、久々坂(倉坂)峠を越えて北国街道の柳ヶ瀬に下りる旧敦賀道です。峠から少し北へ上がると賤が谷の戦いのときに柴田勝家が本陣を敷いた玄蕃尾城跡が残っています。 柳ヶ瀬には彦根藩の関所があり、2023年秋、関所跡の石柱の横では、若い奥さんがにこやかに洗濯物を干していました… *大聖寺から敦賀まで古い知己がいて寄り道した松岡・永平寺を別にすれば、芭蕉は先行した曽良と同じルートを取っています。曽良は、木ノ本宿、長浜から彦根まで船に乗り知人を訪ねてから鳥居本宿、摺針峠を越えて中山道を通り関ヶ原宿、そして大垣に入っています。芭蕉は彦根・鳥居本を経由する理由はありませんから、木ノ本宿から北国脇往還を通り関ヶ原に出て大垣に向かったと考えます。木ノ本~大垣間は50kmほどありますから途中、脇往還春照(すいじょう)宿で一泊したと推測されています。関ヶ原宿だったかもしれませんし、「駒にたすけられて」と書いていますから直接大垣といった可能性もないわけではありませんが、急ぐ旅でもなかったようですのでやはり一泊したとするのが妥当だと思います。 このルートは、朝倉・浅井軍と織田軍との合戦(姉川の戦い、小谷城の戦いなど)、柴田軍と羽柴軍との余呉湖が文字通り血の湖となったといわれる賤が岳の合戦**そして豊臣軍と徳川軍の天下分け目の関ヶ原合戦など、かつての戦場そのものです。 おくのほそ道には平泉の高館・衣川の古戦場だけでなく数多くの古戦場があり、特に福井以降は道筋に戦跡が連続して芭蕉の時代には昨日のことのような生々しさがあったのではないかと想像されました。 写真上:刀根越えの山道、中:玄蕃尾城址より近江方面を望む、下:賤が岳と余呉湖 **柴田勝家の養子勝豊は前年の秀吉の岐阜城織田信孝攻めの際、長浜城を開城秀吉に下っており、勝豊軍は秀吉配下として参戦しています。しかし勝豊は合戦前に京で亡くなっています。また、柴田軍には前田利家が、秀吉軍には藤堂高虎が参加しており、柴田軍が敗北したのは前田利家の戦線離脱が原因だといわれています。

2023年10月2日(旧暦八月十八日) 路通 元禄二年八月十九日(1689年10月2日)

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「翁の行脚をこの港まで出でむかひて / 目にたつや海青々と北の秋」という句を、路通は残しています。色の浜に行った気配はありませんので、芭蕉が戻った十七日頃に迎えに来たとしておきます。 気比の松原に立って、色の浜方面を見やって詠んだのかもしれません。 結局、芭蕉と共に天屋に二泊し、十九日大垣に向けて敦賀を発ちました。路通は、当初おくのほそ道の旅随行者の有力候補でした。 「露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。」

2023年9月30日(旧暦八月十六日) 小萩ちれ 元禄二年八月十七日(1689年9月30日)

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色の浜本隆寺で一泊した芭蕉は、この日舟で敦賀に戻ったものと思われます。水島に上陸したかもしれません。 「小萩ちれますほの小貝小盃」の句碑が本隆寺に建っています。「等栽に筆をとらせて寺に残」された文にある句で、「波の間や」の初案だともいわれています。 この日からの芭蕉の日程は不明です。私の推測は、翌日敦賀を発つつもりでこの日は天谷邸に宿泊したのだと思います。ところが十八日は天候が悪く十九日に延期したのではと考えます。 曽良の旅日記には「十八日 雨降」とあり、長島と敦賀は離れているといってもわりと近い天候であったのではと思います。

2023年9月29日(旧暦八月十五日) 空霽(はれ)たれば 元禄二年八月十六日(1689年9月29日)

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「汐染むるますほの小貝拾ふとて色の濱とはいふにやあらん」と西行が詠んだ色(種)の浜で月見をするため、芭蕉は敦賀に来た可能性があります。「ますほ」は真蘇芳あるいは真赭で赤色のことだそうです。 「十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の浜に舟を走らす。海上七里あり。天屋(てんや)何某と云もの、破籠(わりご)・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。」海上七里となっていますが、曽良は「海上四里」と書き残しています。芭蕉が往復の距離を勘違いしたものか、あるいは遠さを強調するための脚色かもしれません。 芭蕉一行は色の浜の本隆寺で、天屋用意の料理・酒・茶をいただいたようです。 「夕ぐれのさびしさ、感に堪えたり。/ 寂しさや須磨*にかちたる浜の秋 / 波の間や小貝にまじる萩の塵 / 其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。」 左の写真の向こうに見える二つの小島は水島という無人島で、7~8月しか渡し舟が出ていません。色の浜の海もきれいですが、地元の方に言わせると水島の海は比べ物にならないくらいきれいだそうで、「それだけが取り柄みたいな所です」って。 この芭蕉と同じ日(新暦)に、私は色の浜に泊り「夕ぐれのさびしさ」を味わおうとしましたが、今年はちょうど名月、空もよく晴れ、月を待つ気持ちの方が勝ってしまいました。 芭蕉も、「衣着て小貝拾わんいろの月」と詠んでいますので、十六夜の月を見たものと思います。 *「須磨」に比較して秋の寂しさは色の浜が勝っているとしています。山中温泉では「其功有間に次と云」と、有馬が勝っているとの判断です。那谷寺では「石山の石より白し」と詠んでいます。この「石山」については諸説ありますが、やはり石山寺を指していると私は思います。北陸と畿内の名所を較べ、この色の浜で北陸の勝ちと芭蕉は判じたという遊びだとも読めます。なお、「白し」は色彩的なこともあるでしょうが、やはり秋の寂しい風情の比較なのでしょう。

2023年9月28日(旧暦八月十四日) 詞にたがはず雨 元禄二年八月十五日(1689年9月28日)

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「十五日、亭主の詞にたがはず雨降。」 旅日記によりますと、十五日大垣は曇、曽良は8時頃に出船、14時くらいから雨が降り出し、16時過ぎに長島大智院に着いています。敦賀も朝は曇だったのかもしれません。 この日芭蕉は、源平、南北、戦国などの合戦の場となった金が崎城址に出かけました。天屋(てんや)五郎右衛門が案内したようです。天屋は敦賀の廻船問屋で主人は玄流という号の俳人でもありました。 曽良旅日記十一日の条に、「天や五郎右衛門尋テ、翁へ手紙認、預置。」とあり、芭蕉が天屋に行くことは予定の行動でした。天気さへ良ければ、この日芭蕉は天屋の手配で色の浜に渡り観月するつもりだったのだと思います。 元亀元年(1570)の朝倉攻めの合戦で近江小谷の浅井長政の離反により、信長軍が越前から総退却した際、金が崎城は「金ケ崎崩れ」とよばれる戦いがあったところです。家康や明智光秀などが参加していましたが、秀吉が殿(しんがり)軍としてここを拠点に撤退戦を戦い、功を上げたそうです。信長は辛うじて朽木を越え京まで逃げ延びました。

2023年9月27日(旧暦八月十三日) 出雲ヤ弥市良 元禄二年八月十四日(1689年9月27日)

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「夕ぐれ」芭蕉は敦賀の唐人橋の宿、出雲屋に到着しました。現在のヨーロッパ軒本店南側にありました。 曽良旅日記十日の条に、「出雲ヤ弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁ヘ渡可く之旨申頼。」とあり、曽良は芭蕉に一両渡してもらうよう宿屋に預けています。遅くとも山中温泉で別れる時には、敦賀で芭蕉は出雲屋に泊ることが決定されていたということになります。 どういうわけか曽良は、出雲屋ではなく隣の「大和ヤ九兵へ」に宿泊していました。 「その夜、月殊晴たり。『あすの夜もかくあるべきにや』といへば、『越路の習ひ、猶明夜の陰晴図りがたし』」と、芭蕉は出雲屋の主人弥市良さんに言われ、「酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。(略) 社頭さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔(そのかみ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。『これを遊行の砂持と申侍る』と、亭主のかたりける。/ 月清し遊行のもてる砂の上」(おくのほそ道) 曽良はこの日大垣に到着しています。「如行を尋、留守。息、止テ宿ス。夜ニ入、月見シテアリク。」と旅日記に書き残しています。 私は28日(旧八月十四日)に敦賀に到着、芭蕉と同じ十四夜の月を気比神宮で見るつもりでしたが、「陰晴図りがたし」15時過ぎから大雨となり空しく宿で過ごしました。 じつは今年5月、「古例今にたえず」新たに就任された第75代時宗法主により「お砂持ち」行事が、18年ぶりに営まれたとしてあっただけに残念でした。 翌朝早く、気比神宮にお砂持ちの痕跡を探しに行きましたが、なにも見つかりませんでした…

2023年9月27日(旧暦八月十三日) 難所木ノ芽峠を越える 元禄二年八月十四日(1689年9月27日)

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先行した曽良は、「九日 快晴 日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右ニ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火ウチガ城、十丁程行テ、左リ、カヘル(帰)山有。下ノ村、カヘル(帰)ト云。未ノ刻、ツルガニ着。」今庄を6時過ぎに出発、14時頃に敦賀に着いています。その距離約27㎞、500mほど上る峠です。「かへる山」はこの峠のある山塊全体を指すようで、今も福井県を嶺南、嶺北の二つの地域に分ける「嶺」です。なお、「かへる山」は枕草子の「山は」の条に名が挙がっている歌枕です。 芭蕉も同じコース*を取り、「燧が城、かへるやまに初雁を聞きて、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」到着は夕ぐれとありますから、曽良よりは少し時間が掛かったようです。  *木ノ芽峠ではなく山中峠を越えて敦賀に出たという説もあります。この説では今庄と敦賀の間で一泊したことになります。 私は、28日に木ノ芽峠を越えましたが、去年・今年と二年続きの大雨の為多くの箇所が崩れ、修復工事途上にあり、山道は手つかずのところもありました。「板橋ノツメヨリ右ニ切テ」と曽良が書いている鹿蒜(かひる)川沿いの旧北国街道も通行止めとなっていましたが、なんとかショベルカーやダンプカーの横を通らせてもらいました。峠の上り下りも崩れや倒木等により足元が悪く、なかなかの難所越えとなりました。 峠には元福井藩の御茶店番だった藁屋根の家が残り、末裔の方が今も住まわれています。 木ノ芽峠は北陸道の要所でしたから、古来より越えた人は多く、平安から鎌倉時代には紫式部・平維盛・木曽義仲・親鸞・道元など、南北朝では新田義貞・蓮如、戦国では信長・秀吉なども通っています。もちろん朝倉義景や柴田勝家も何度も越えた事でしょうし、お市の方と初、江、茶々三姉妹も。なお、新田義貞の軍勢の多くはこの峠で凍死したとのことです。 峠から敦賀に下る途中に「よぶ坂」という急峻な坂があります。長徳三年(997年)父清原元輔の赴任地であった越前からの帰京の際、紫式部はここで歌を詠んでいます。「都の方へとて帰る山越えけるに、よび坂といふなる所の、いとわりなきかけ路に輿もかきわづらふをおそろしと思ふに猿の木の葉の中よりいと多く出で来たれば / 猿(まし)もなほ遠方(をちかた)人の声かはせわれ越しわぶる手児(たこ)の呼坂」