2023年10月4日(旧暦八月二十日) 大垣・紙衾 元禄二年八月二十一日(1689年10月4日)

「駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、その外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。*」(おくのほそ道)

「三百余里の険難をわたり、終に頭をしろくしてみのゝ国大垣の府にいたる。」(紙衾ノ記)

芭蕉は、元禄二年八月二十一日に大垣到着し、三月二十七日深川を出発して以来のおくのほそ道の旅を終えました。十四日に曽良が前触れしていましたので、大勢の弟子が出迎えた事でしょう。

芭蕉は、天満宮の西北にあたる室の如行宅を宿とします。現在の蛭子神社辺りにあったそうです。

おくのほそ道本文では、曽良も越人も到着の日に駆けつけたようにも読めますが、、曽良が長島から大垣に戻ったのは九月三日、越人は「予ニ先達テ越人着」と旅日記にあることから曽良より少し早く到着してしていたものと思われます。

曽良と越人を加え、如行、荊口父子、左柳、木因らとの「はやう咲九日も近し宿の菊」(芭蕉)を発句にした十二吟歌仙が巻かれたのは四日のことでした。

*芭蕉は、大垣で疲れた足や体を揉んで労わってくれた如行の弟子竹戸(鍛冶屋だったそうです)、礼として旅で使った自らの紙子を、「紙衾ノ記」と共に与えます。「(略)如行が門人に竹戸といふ者ありて、其衾に此記を得て、今も其家の宝とす。路通も、越人も、其記をかきて、竹戸が幸をうらやまれけるとぞ。(略)」と支考が書き残しています。じつは路通と越人だけでなく如行や曽良も記を残しており、句を詠んでいます。

「古きまくら、古きふすまは、貴妃がかたみより伝えて、恋といひ哀傷とす。(略) いでや此紙のふすまは、恋にもあらず、無常にもあらず。蜑の苫屋の蚤をいとひ、駅(うまや)はにふのいぶせさを思ひて、出羽の国最上といふ所にて、ある人のつくり得させたる也。(略)なをも心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれと、我をしとふ物にうちくれぬ。」(芭蕉)

「(略)あへて汝そこなふ事なかれ。身を終るまで愛して、終に棺中にしけとぞ爾云。/ ものうさよいづくの泥ぞ此衾 如行拝」、「(略) 此紙衾ひとつは、みちのくのきさがたあたりより(略)つかれたる肩にかけ、ほそりたる腰につけて、はるばるとみのゝ国までのぼりつき給ふを、竹戸というふおのこにゆづりあたへける也。(略)紙とのりとのさかひは日を追てはなれやすかるべし。こゝろざしとなさけはとしふるともそこなふ事なかるべし。 路通敬書/ 露なみだつゝみやぶるな此衾」、「濃州の市隠如行のもとにものし給ふよし、夕に聞て其朝はしり着て、先逢へてまづらしなんど泣わらふ。その道のほどはまへにきえつる衾は竹戸にもらはれけんこそはいかに。(略)越人々々おそく来てくたしからんと、越人と越人が云、/ くやしさよ竹戸にとられたるふすま」、「(略)我したがって旦夕にこれをおさむ。いま竹戸にあたえられし事をそねんで奪んとすれど、大石のごとくあがらず。おもふべし。衾のものたる薄してそのまことの厚き事を。/ たゝみめは我手の跡ぞ其衾 曽良」

「題衾四季/ 花の陰昼寝して見ん敷衾/ 虫干のはれのかざらん衾哉/ 長き夜のねざめうれしや敷ふすま/ 首出して初雪見ばや此衾 竹戸拝」。

なお、この竹戸の「首出しての」句と上記曽良の「たゝみめは」句は、下五それぞれ「紙衾」に直して、「『おくのほそ道』行脚後の新風を具現した傑作として名高」く、蕉風の一つの到達点ともいわれる元禄四年七月板の俳諧集「猿蓑」に入集しています。

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