2023年10月4日(旧暦八月二十日) 関ヶ原 元禄二年八月二十一日(1689年10月4日)

芭蕉は北国脇往還の春照宿に泊ったのではないかと推定されていますが、確証はありません。関ヶ原宿の二つ手前で、木ノ本と大垣のちょうど中間にあたる宿場です。「春照」は「すいじょう」と読みます。

北国脇往還は平地でもくねくねと曲がりが多く、かつ現在では農地化等により失われている箇所もあって辿りづらい街道です。とくに春照宿から藤川宿、関ヶ原にかけて山道に入るため方向余計にわかりにくく道を2度間違えました。関ヶ原合戦の時、特に西軍の将兵は苦労したのではないかと思いました。

関ケ原合戦は、松尾山に陣を置いた西軍小早川秀秋*の寝返りが、東軍の勝利決定要因だといわれます。秀秋は、秀吉の正室北政所の甥にあたり秀吉の養嗣子となり、天正十九年(1591)9歳で従三位権中納言に叙任されましたが、2年後に淀君(茶々)が秀頼を生んだため、翌文禄三年(1594)小早川家に養子に出された人です。関ケ原の6年前のことです。

*関ヶ原合戦では、秀秋の異母兄木下勝俊(長嘯子)は東軍、実父の家定は中立の立場でした。また、松尾芭蕉の主家筋である藤堂高虎は東軍の中核として戦い、前田家は利家が前年亡くなり長男利長が東軍、次男利政が西軍でした。

おくのほそ道にも他の俳文においても、芭蕉は関ケ原の戦いなどのことには一切触れていません。

はばかられるものがあったのでしょう…

元禄三年(1690)八月板の「俳諧生駒堂」に「平泉古戦場 路通か語りしを聞て / 夏艸や兵ともの夢の跡」が、おそらく芭蕉には無断で掲載されています。路通が直接編者か鬼貫かに提供したものではないかと思っています。

この有名句は、曽良旅日記・俳諧書留には記載されていませんので、高館で詠んだ句ではありません。じつは、当時としてはまだ記憶に新しい戦いの地を行く、路通が随行する敦賀から大垣への旅の途中に出来たものではないかと、わたしは想像しています。

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