2023年10月22日(旧暦九月八日) 久居 元禄二年九月十日(1689年10月22日)

前日快晴の長島を出船、8時頃桑名で舟を下りた芭蕉一行は、「壱リ餘暗」い中を歩き津に到着、宿泊しました。桑名七里の渡しから津迄は11里半の距離です。そして内宮遷宮式の今日十日、津から一里半ほどの久居の超善寺に移動して一泊します。左写真は超善寺の近くにあって往時の面影を残す天心寺。

六日に木因は長島まで送ってきましたが、「(略)長島といふ江によせて立わかれし時 荻ふして見送り遠き別哉」と残しており、大智院には泊まらなかったようです。木因は廻船問屋でしたから対岸にあたる桑名にも店があったのかもしれません。しかし曽良の旅日記の七日の条によりますと「木因来」とありますから、大智院に戻ってきます。貞享元年(1684)と同様木因は、伊勢まで芭蕉に同行するつもりだったのではないでしょうか。十日が内宮遷宮式に間に合うように…。ところが芭蕉は雨を理由に出発しませんでした。「八日 雨降ル故発足延引俳有トモ病気発シテ平臥ス」と旅日記にあり、遷宮式に向かわず七日にはじめた「一泊り」歌仙の続きを巻いたのだと思われます。この歌仙の後半には木因、曽良は参加していません…。

久居は藤堂津藩の支藩で、城は結局建設されませんでしたが五万三千石の城下町で、10月18日の条に書きました元禄の伊勢遷宮奉行藤堂高通が藩主でした。芭蕉は何度も久居には寄っており、嫁いだ姉がいたともいわれ、家臣にも松尾姓が何家か見られることから知り合いもいて馴染みのところ*だったと思います。

*元禄五年十一月二十七日付兄半左衛門宛の手紙に「さてもさても難儀仕候段、(略) 先久ゐ(居)へはさたなしに仕候。あんじられて候而益なき事に候間云々」と3年余後の手紙ですが、久居で家族関係のなにか心配事起こっていたのかもしれません。元禄二年正月十七日付半左衛門宛の末尾に「七郎左衛門方あねじや人、御無事に御座候哉。」とあります。なお、左写真は久居陣屋跡の高通児童公園。

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