2023年10月2日(旧暦八月十八日) 刀根越え 元禄二年八月十九日(1689年10月2日)


芭蕉の敦賀から大垣への行程は、日程・ルートともはっきりしませんが、わたしは、刀根越えで北国街道に入り、余呉湖経由木ノ本宿、そのあと北国脇往還から中山道関ヶ原宿、垂井追分を美濃路にとり、芭蕉は大垣を目指したとの説です*。

刀根越えは、久々坂(倉坂)峠を越えて北国街道の柳ヶ瀬に下りる旧敦賀道です。峠から少し北へ上がると賤が谷の戦いのときに柴田勝家が本陣を敷いた玄蕃尾城跡が残っています。

柳ヶ瀬には彦根藩の関所があり、2023年秋、関所跡の石柱の横では、若い奥さんがにこやかに洗濯物を干していました…

*大聖寺から敦賀まで古い知己がいて寄り道した松岡・永平寺を別にすれば、芭蕉は先行した曽良と同じルートを取っています。曽良は、木ノ本宿、長浜から彦根まで船に乗り知人を訪ねてから鳥居本宿、摺針峠を越えて中山道を通り関ヶ原宿、そして大垣に入っています。芭蕉は彦根・鳥居本を経由する理由はありませんから、木ノ本宿から北国脇往還を通り関ヶ原に出て大垣に向かったと考えます。木ノ本~大垣間は50kmほどありますから途中、脇往還春照(すいじょう)宿で一泊したと推測されています。関ヶ原宿だったかもしれませんし、「駒にたすけられて」と書いていますから直接大垣といった可能性もないわけではありませんが、急ぐ旅でもなかったようですのでやはり一泊したとするのが妥当だと思います。

このルートは、朝倉・浅井軍と織田軍との合戦(姉川の戦い、小谷城の戦いなど)、柴田軍と羽柴軍との余呉湖が文字通り血の湖となったといわれる賤が岳の合戦**そして豊臣軍と徳川軍の天下分け目の関ヶ原合戦など、かつての戦場そのものです。

おくのほそ道には平泉の高館・衣川の古戦場だけでなく数多くの古戦場があり、特に福井以降は道筋に戦跡が連続して芭蕉の時代には昨日のことのような生々しさがあったのではないかと想像されました。

写真上:刀根越えの山道、中:玄蕃尾城址より近江方面を望む、下:賤が岳と余呉湖

**柴田勝家の養子勝豊は前年の秀吉の岐阜城織田信孝攻めの際、長浜城を開城秀吉に下っており、勝豊軍は秀吉配下として参戦しています。しかし勝豊は合戦前に京で亡くなっています。また、柴田軍には前田利家が、秀吉軍には藤堂高虎が参加しており、柴田軍が敗北したのは前田利家の戦線離脱が原因だといわれています。

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