2023年9月27日(旧暦八月十三日) 難所木ノ芽峠を越える 元禄二年八月十四日(1689年9月27日)

先行した曽良は、「九日 快晴 日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右ニ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火ウチガ城、十丁程行テ、左リ、カヘル(帰)山有。下ノ村、カヘル(帰)ト云。未ノ刻、ツルガニ着。」今庄を6時過ぎに出発、14時頃に敦賀に着いています。その距離約27㎞、500mほど上る峠です。「かへる山」はこの峠のある山塊全体を指すようで、今も福井県を嶺南、嶺北の二つの地域に分ける「嶺」です。なお、「かへる山」は枕草子の「山は」の条に名が挙がっている歌枕です。

芭蕉も同じコース*を取り、「燧が城、かへるやまに初雁を聞きて、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」到着は夕ぐれとありますから、曽良よりは少し時間が掛かったようです。 

*木ノ芽峠ではなく山中峠を越えて敦賀に出たという説もあります。この説では今庄と敦賀の間で一泊したことになります。

私は、28日に木ノ芽峠を越えましたが、去年・今年と二年続きの大雨の為多くの箇所が崩れ、修復工事途上にあり、山道は手つかずのところもありました。「板橋ノツメヨリ右ニ切テ」と曽良が書いている鹿蒜(かひる)川沿いの旧北国街道も通行止めとなっていましたが、なんとかショベルカーやダンプカーの横を通らせてもらいました。峠の上り下りも崩れや倒木等により足元が悪く、なかなかの難所越えとなりました。

峠には元福井藩の御茶店番だった藁屋根の家が残り、末裔の方が今も住まわれています。

木ノ芽峠は北陸道の要所でしたから、古来より越えた人は多く、平安から鎌倉時代には紫式部・平維盛・木曽義仲・親鸞・道元など、南北朝では新田義貞・蓮如、戦国では信長・秀吉なども通っています。もちろん朝倉義景や柴田勝家も何度も越えた事でしょうし、お市の方と初、江、茶々三姉妹も。なお、新田義貞の軍勢の多くはこの峠で凍死したとのことです。

峠から敦賀に下る途中に「よぶ坂」という急峻な坂があります。長徳三年(997年)父清原元輔の赴任地であった越前からの帰京の際、紫式部はここで歌を詠んでいます。「都の方へとて帰る山越えけるに、よび坂といふなる所の、いとわりなきかけ路に輿もかきわづらふをおそろしと思ふに猿の木の葉の中よりいと多く出で来たれば / 猿(まし)もなほ遠方(をちかた)人の声かはせわれ越しわぶる手児(たこ)の呼坂」


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