2023年10月27日(旧暦九月十三日) 谷木因 元禄二年九月十五日(1689年10月27日)

 「此度さまざま御馳走、誠以痛入辱(かたじけなく)奉存候。爰元へ御参詣被成候にやと心待に存候処、いかが被成候哉、御沙汰も無御坐、御残多。云々」と、九月十五日付で芭蕉は大垣の木因宛に参拝の報告、また美濃に行った折にはお目にかかりたと手紙を書いています。

芭蕉と木因とのつながりは、木因や荊口ら大垣俳人が連座した延宝八年(1680)七月興行の「大垣鳴海桑名名古屋四ツ替り」百韻(鳴海の下里知足主催)の加点を、江戸の芭蕉(当時桃青)に受けたことを縁となり、翌九年江戸に下った木因と芭蕉は連句を巻きました。この時、木因の山口素堂訪問に芭蕉も同席し三つ物を残しています。そもそも木因は芭蕉は初対面でしたが、素堂とは同じ北村季吟門下で以前からの知己であったようです。  芭蕉と素堂は延宝二年(1673)以来の俳友です。

芭蕉はこれをきっかけに木因との交遊が始まり、貞享元年(1684)の野晒紀行の途次には「かねてからの約束に従って大垣の木因を訪ね」て、木因亭に長期滞在します。木因はおおいに歓迎、芭蕉と地元の俳人との取り持ち歌仙を巻いたり、芭蕉に同道して尾張や伊勢も訪れ二人で句を残すなどしています*。このような良好な関係はおくのほそ道の旅が終わる頃まで続いていたようですが、本書簡以降の両者間の書簡は残っていません**。上記の伊勢からの手紙にも関わらず、元禄四年十月江戸への帰路の途中大垣での半歌仙興行にどういうわけか木因は連座していませんし、芭蕉は木因亭に立ち寄った様子もないなど、急激に疎遠になったように感じられます。大垣における芭蕉の有力な支援者であったにもかかわらず「おくのほそ道」に木因の名がないのは、やはり不思議です。

左の写真は、野晒の旅の折芭蕉大垣来訪を歓迎して木因が建てたという俳句仕立ての道しるべです。「南いせくわなへ十りさいかう(在郷)みち」と標されています。「桑名へ」と春の季語「桑植う」の子季語になるのでしょうか「桑苗」が懸けられているそうです。なお、この道標は複製で、実物は前に建っています「奥の細道むすびの地記念館」に展示されています。

芭蕉は木因を、加点を求められて始まった関係ですから弟子***として遇していましたが、木因の思いはすこし違ったようです。木因は芭蕉より二歳年長で、延宝四年の季吟「続連珠」に発句五、付句六が入集するなど実績もあり俳諧宗匠として立机もしましたので、芭蕉とは同じ季吟門の同輩との意識だったののでしょう。木因は、自らの独吟百韻二巻の加点を季吟にしてもらったり、「季吟より白桜下木因風雅秘伝免許也」と木因は終生季吟の弟子を自認していました****。
10月18日の項に書きましたように季吟は、「十日、十三日はうちと(内外)の宮の御遷宮」のため伊勢逃下向する予定でした。木因は師である季吟と伊勢で謁えることを殊の外重要視していたのではと憶測します。この木因の思いと「権威」に囚われまいとする芭蕉の思いとの行き違いがあったのではないでしょうか。

左の写真は、大垣市の正覚寺にある翁塚の傍らに建つ谷木因の墓碑。

*「伊勢の国多度山権現のいます清き拝殿の落書。武州深川の隠泊船堂主芭蕉翁・濃州大垣観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句召され候へ/伊勢人の発句すくはん落葉川 木因/右の落書を厭ふの心/宮守よわが名を散らせ木葉川 桃青」(木因稿「桜下文集」) なお、木因は芭蕉だけではなく、談林派の西鶴や仙台俳壇の総帥三千風等著名俳諧師の大垣来訪を受け入れ支援していました。 **元禄六年正月二十日付木因宛書簡真蹟と言われるものが残されていますが、田中義信は偽簡としています。わたしもそう思います。 ***しかし芭蕉が編に深く携わった俳諧集には木因の入集はありません。其角の「虚栗」に一句見られる程度です。 ****「季吟は(木因の)和歌・俳諧の師であり、『連俳秘記抄』を相伝した。二人の交渉は延宝四年を被出とし、元禄二年季吟父子の幕府出仕前後、同三年父子御加増に際しての季吟よりの来翰、そして季吟晩年の木因東下訪問と季吟の生涯にわたって継続する。」(森川昭) 

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