2023年10月17日(旧暦九月三日) 南蛮酒 元禄二年九月五日(1689年10月17日)

芭蕉のもとに戸田如水からの餞別が届き、南蛮酒と紙子でした。昨日の会談で使い古した紙衾を竹戸に与えたことも話題に上ったものと見えます。

「如水日記抄」九月五日の条に、「芭蕉・路通明日伊勢の地へ越ゆる由申すに付き、風防のため南蛮酒一樽・紙子二表、両人の頭巾等の用意に仕り候様に、旅宿の亭主竹島六郎兵衛ところまで申し遣はし畢(をはん)ぬ。」とあります。

この「南蛮酒」なんですが、じつは芭蕉はこの時だけではなくて元禄七年にも「南蛮酒」を送られています。同年八月十四日付の大津智月宛の芭蕉の礼状が残っています。「御みまひとして長蔵下され、ことには南蛮酒一樽、麩二十おくりくだされ、忝くぞんじまいらせそろ。十五日、月見客御ざ候ところ、一入(ひとしほ)々々御うれしくぞんじまいらせそろ。(略)」

これらを読んだときは芭蕉もワインを飲んだのだと嬉しくなって、如水日記抄に「風防のため」とありますのでポートワインを薬代わりにとかさまざま想像していました。長崎の出島にはイスパニアやフランスのワインがオランダ東インド会社によって持ち込んでいましたから、その可能性はなくはありません。オランダ商館は、高級役人を葡萄酒・オランダ酒で饗応してましたし、長崎奉行等への贈り物として「葡萄酒20ℓ一樽」といった記録も残っています。しかし、南蛮渡りの葡萄酒はいくら裕福であっても手に入れるのは無理だったと思われ、残念ながらこの「南蛮酒一樽」ワインでない可能性が高いと考えざるを得ません。

じつは、寛永十四年(1637年)、初代・大倉治右衛門が創業した伏見の「笠置屋」はいろいろな酒を造っており、18世紀初めには焼酎と味醂から造った「南蛮酒」が京名物になっていたようです。この南蛮酒については貝原益軒も触れており*、今の月桂冠・大倉家の古文書にも記載されているそうです。 芭蕉がおくられたのは、この伏見大倉家の「南蛮酒」だと思います。

*「養生訓」正徳三年(1713)刊 巻四「飲酒」において「焼酒(焼酎のこと)は大害あり。多く飲べからず。火を付てもえやすきを見て、大熱なる事を知るべし。夏月は(略)少のんでは害なし。他月はのむべからず。焼酒にてつくれる薬酒多く吞むべからず。猶辛熱甚し。異国より来る酒のむべからず。性しれず、いぶかし。(略) 大寒の時も焼酒をあたゝめて飲むべからず。大に害あり。京都の南蛮酒も焼酒にて作る。焼酒の禁と同じ。」と、「酒は天の美禄なり」と称賛する益軒ですが、飲んではいけない酒としています…。

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