2023年10月18日(旧暦九月四日) むすびの地 元禄二年九月六日(1689年10月18日)

「長月六日になれば、伊勢の遷宮*おがまんと、又舟にのりて、/ 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ」と書き出された「おくのほそ道」は、このように結ばれ、「蛤の」句は結びの句ととして、「弥生も末の七日、(中略) 千しゅと云所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。/ 行春や鳥啼魚の目は泪 / 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。」の旅立ちの「矢立初めの「行春を」句を受けているとともに、又そこに繋がっていきます。

物語は円環を成しています…

結局、芭蕉は八月二十一日に大垣に到着、滞在十五日間に及び、今日木因等富裕な商人たちが店を構える船町の川港から、多くの門弟が見送るなか伊勢に向けた出発しました。如行、木因、曽良、路通は同船しており、越人は港で見送りました。

この日、芭蕉は長島の大智院**に泊り、地元俳人や木因、曽良、路通等と七吟歌仙などを巻き、結局三泊することになります。この時、「伊勢の国長島、大智院に信宿す 憂きわれを寂しがらせよ秋の寺」の色紙を残しています。おくのほそ道の旅を無事終えた芭蕉に「憂き」思いをさせたのは何だったんでしょう…

*如水にも説明、「おくのほそ道」本文にも書いていますように、今回の旅立ちは伊勢遷宮参拝の為でした。おくのほそ道のあと、伊勢に参宮することはかなり以前から決めていたことだと思います。芭蕉は前年にも伊勢に参宮していますし、そもそもこの元禄の遷宮の奉行は芭蕉の主家筋である久居藩主の藤堂佐渡守高通でしたので、関係者も芭蕉の知り合いの中にいたかもしれません。内宮の遷宮式は九月十日、外宮は十三日でしたので、大垣はその日に間に合うよう出立しましたが、どういうわけか寄り道して伊勢山田に着いたのは十一日でした。そもそも芭蕉は遷宮式の日には参宮したくなかったのではないかとわたしは疑っています。 **大智院の院主は第四世良成(秀精法師)は、曽良の叔父にあたり、山中温泉で芭蕉に別れ先行した曽良は、八月十五日から九月朔日まで滞在、療養していました。

高通は任口***という俳号を持ち芭蕉に先立って北村季吟から「埋木」伝授を受けており、伊勢神宮神官にも季吟門がいること、この年季吟は幕府歌学方に取り立てられることなどが関係してると考えます。主家筋・師筋らと一堂に会することにより、新しい俳諧の芽が摘み取られることを恐れたのではないでしょうか…。季吟は「参宮記」に「元禄二年九月十日、十三日はうちと(内外)の宮の御遷宮なるに藤堂さどのこうのとの此たびの奉行を承り玉つるに必まうでつかふまつるべき心ざし有ながら(略)十七日のあかつきよにこれかれ(此彼)いざないつつかどで(門出)す。」と体の具合が悪く、京都を出発したのは九月十七日となり、結局遷宮式には間に合いませんでした。  ***「寛文十一年(1671)十月七日/季吟初めてまふでければ/染ばやとまつにきた村時雨哉 任口/ひいて入日の影寒き雲 季吟」との連句が残されおり、「季吟が貴紳に取り入るのが上手な俳諧師であったことは夙に有名だが、それにしてもこの訪問時期のあまりの速さには全く驚嘆せざるを得ない。」(榎坂浩尚) 高通が兄高久から5万石の分与を受けて久居藩初代藩主になったのは寛文九年九月二十九日。



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