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2023年5月27日(旧暦四月八日) 修験光明寺 元禄二年四月九日(1689年5月27日)

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芭蕉は、九日に余瀬の修験光明寺に招かれて、行者堂にて役行者が使ったという一本歯の足駄を拝観します。   夏山や首途(かどで)を拝む高足駄 * 今、修験光明寺は跡形もなく木々に覆われて、ただ句碑が建つばかりです。句碑は「 夏山に足駄を拝むかどでかな」 と「おくのほそ道」と同様の句形となっています。 芭蕉は昼から夕方まで滞在して、黒羽城の桃雪邸に戻ります。 *曽良の俳諧書留に記している句で、当日芭蕉が詠んだ句形です。 光明寺院主法印津田源光は、大関家の有力な家臣で、その妻は、桃雪・翠桃兄弟の妹でした。この三人兄妹の母親は、第3代藩主大関高増の妹菊姫(月光院)の娘でした。菊姫は浄法寺茂明(桃雪の義父の父)に輿入れし、その娘が鹿子畑左内高明に嫁いで三兄妹を生みました。三人の祖母である月光院菊姫の母親は、しゃむ(シャン)姫と呼ばれ徳川家康の側室の子で、家康の従弟で浜松城主であった水野重央の養女として大関家に輿入れされた方でした。というわけで、この三兄妹は家康の玄孫にあたります。芭蕉が意識していたかは全く不明です。

2023年5月25日(旧暦四月六日) 田や麦や 元禄二年四月七日(1689年5月25日)

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  芭蕉は雨のため外出できず、黒羽城三の丸内にある浄法寺図書桃雪の屋敷に滞在しています。曽良は「旅日記」に「六日ヨリ九日迄、雨止ズ」と記しています。 「俳諧書留」に「しら川の関やいづことおもふにも、先、秋風の心にうごきて、苗みどりにむぎあからみて、粒々にからきめをする賤が仕業もめにちかく、すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。ただ声をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。/  田や麦や中にも夏の時鳥  / 元禄二孟夏七日 芭蕉桃青」と、多分逗留先の桃雪に芭蕉が贈ったと思われます真蹟の写しを残しています。 2023年の雨は23日だけで上がり、翌24日は写真のようによく晴れました。風が強く肌寒かったですけど…。黒羽城址眼下には、芭蕉も見たであろう「田や麦」の景色がひろがっています。なお、25日は薄曇りです。

2023年5月23日(旧暦四月四日) 雲岩寺見物 元禄二年四月五日(1689年5月23日)

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元禄二年四月五日芭蕉らは雲巌寺を参詣します。朝曇りでしたが、天気は良かったようです。2023年の今日は、朝から一日中雨。最高気温13℃、4,5日前の30℃越えが夢のような肌寒さでした。雲巌寺の手前で唐松峠というあまり高くない峠を越えるのですが、吐く息が白くなったのにはびっくりしました。 芭蕉らは「人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打ちさわぎて、おぼえず彼麓に至る。」 私は一人とぼとぼ雨の中、やっとたどり着きました。雲巌寺は森閑として、楓や欅はいっそう青く濡れそぼっていました。 「仏頂和尚山居跡あり。/縦横の五尺にたらぬ草の庵/むすぶもくやし雨なかりせば/と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。(中略) かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上(せきしょう)の小庵岩窟にむすびかけたり。」仏頂和尚は、鹿島神宮との土地問題訴訟で芭蕉庵近くの臨川寺に永らく逗留していた鹿島根本寺二十一世住職。芭蕉の禅の師です。 雨の中よじ登って探してみました。左の写真です。 松の炭の書付は、残念ながら雨で流されてしまったようでした。

2023年5月22日(旧暦四月三日) 浄法寺図書招カル 元禄二年四月四日(1689年5月22日)

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  「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び云々」とおくのほそ道に記される、黒羽藩城代家老浄法寺桃雪邸を、今日、元禄二年四月四日(1689年5月22日)芭蕉は訪れます。桃雪は鹿子畑家の長子として生まれましたが、母の兄が当主の浄法寺の養子となり跡を継ぎます。そして、弟の翠桃が鹿子畑家を継いだわけです。実は、この兄弟の祖母月光院は徳川家康の孫でしたので、二人は家康の玄孫となります。 桃雪の私邸は、黒羽城三の丸にありました。現在修復された旧浄法寺邸が建っているところです。 一番手前が桃雪の墓碑です。向こうに見える歴代黒羽藩主大関家墓石群に向って立てられています。桃雪墓碑の左手に見える上部が落ちてしまっている宝形印搭は、祖母である月光院の供養塔です。これらの墓所は、黒羽城に隣接する大雄寺にあります。 2023年5月22日、邸跡も墓所も訪れる人なくひっそりとありました。

2023年5月21日(旧暦四月2日) 翠桃宅、ヨゼト云所也トテ 元禄二年四月三日(1689年5月21日)

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昨日、裏見の滝から 憾満ヶ 淵を見巡った芭蕉は、午の刻、日光を発ちました。今市と大田原を結ぶ日光北街道を進み、激しい雷雨に遭い漸く玉生に着いて泊まります。「宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル」。私は、お昼を奮発して日光金谷ホテルのメインダイニングで百年カレーと生ビール。2時くらいに出発、今市まで歩き宇都宮回りで矢板迄ショートカットして、西那須野温泉泊。 元禄二年の今日は快晴、芭蕉は辰上刻、玉生を立って大田原を経て黒羽・余瀬の鹿子畑翠桃を訪れます。この間のエピソードが、「ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、/ かさねとは八重撫子の名成べし 曽良」です。ただ、この句は曽良の旅日記、俳諧書留にありませんから、芭蕉の創作でしょう。 天候は晴、私も、大田原を通り翠桃邸跡を訪ねました。西那須野からでしたから芭蕉よりはだいぶ早く着きました。写真は翠桃の墓(手前から3番目の卵型の石碑。手前の一番奥が翠桃と実兄の桃雪の実父鹿子畑左内高明の墓碑です。)と水田となった屋敷跡です。正面の大きな木は築山だったかもしれません。

2023年5月20日(旧暦四月朔日) ウラ見ノ滝・ガンマンガ淵見巡 元禄二年四月二日(1689年5月20日)

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今日、日光は昨日の雨雲が残ったような曇天でしたが、元禄二年は「天気快晴。辰ノ中刻、宿ヲ出」た芭蕉は一里ほど歩き裏見の滝を訪れ、そのあと多分安良沢の大日堂から 憾満ヶ 淵を見巡ります。 昨日の雨で 一層瑞々しくなった若葉の青の鮮やかさに芭蕉は瞠目したに違いありません。 写真は、淵沿いの緑です。 今日のような曇でも、昨日の雨で鮮やかさを増した若葉は目に染みるほどまぶしく、圧倒的でした。 まさに生命の息吹で満たされている 世界が現前していました。 芭蕉は、この時「あらたふと」句の改案を思いついたのではないでしょうか。 あらたふと青葉若葉の日の光 「おくのおそ道」には「卯月朔日」の句として収録されています。 鉢石宿(この宿が日光街道の最終の宿にあたり、芭蕉もこの宿場に泊まりました)の本陣であった高野(こうの)家に江戸時代の古い句碑がのこされており、その句は「木の下闇」となっています。この高野家が仏五左衛門の家かと推測されたこともあったようですが、違いました。 (裏見の滝は、芭蕉と時間を合わせて勇んで向かったのですけど、落石事故の為通行止めになっており、見ることができませんでした。つい最近のことかと思いきや、落石は半年ほども前とのこと、まだ復旧のめども立っていないそうで、なんたることかと…)

2023年5月19 日(旧暦三月三十日) 五左衛門ト云者ノ方ニ宿 元禄二年四月朔日(1689年5月19日)

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芭蕉は鹿沼を出発し、文挾、板橋、今市と例幣使街道を辿ります。「前夜ヨリ小雨降。辰上刻、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス」「午ノ刻、日光へ着。雨止」。 鹿沼宿から日光鉢石宿まで七里、朝出て昼に着くんですからずいぶん早く歩くように思われますが、江戸時代の時刻は不定時法で昼の時間が長い時期は一刻が長くなるからでしょうね。 私は少し出遅れ、芭蕉のあとを追って例幣使街道を急ぎましたが、途中で突然の大雨に遭い歩行困難となり東武電鉄の助力によりまして、ほぼ同時くらいに日光に到着しました。2023年は残念ながら雨は止むことなく、ますます強く降り続きました…、ここ2,3日の暑さがうそのようです。 芭蕉らは水戸藩の塔頭である養源院へ手紙を届けます。このことが、曽良が水戸藩から何らかの密命を帯びていたのではという憶測を生みます。曽良は二十日に深川を出て二十七日の旅立ちまでの間に千住から水戸まで出向き指令を受けたのではないかといった憶測です。確かに、おくのほそ道の途中の曽良の行動や旅日記の謎の数字など、曽良は隠密であったかもと思わせるところがあるようです。(左の写真は、明治の廃仏毀釈により廃寺となった養源院跡です。東照宮美術館の右手奥に石垣のみ残されています。334年間の今日、芭蕉はここに居たのです。) 旅日記には(四月朔日)「未ノ下刻迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿」とありますが、「おくのほそ道」では、「三十日(みそか)日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、『我名は仏五左衛門と云。万(よろず)正直を旨とする故に、云々」となっています。今頃、五左衛門の宿で芭蕉は床に就いたころでしょうか…

2023年5月18日(旧暦三月二十九日) 辰ノ上刻、マゝダヲ出。元禄二年三月二十九日(1689年5月18日)

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間々田についたのは9時過ぎでしたから、芭蕉が発って一刻ほど経っていました。間々田にはかつての宿の面影はありませんでした。間々田宿は日光街道で、江戸日本橋からも日光からも11番目という、距離もほぼ18里と中間にあって例幣使が「相の榎」を植えるなど、たいへん栄えた宿場だったのですが… が、今朝発った芭蕉の蒼い面影が、残っていました! 芭蕉は、 いかでかは思ひありともしらすべきむろのやしまのけぶりならでは (実方朝臣)など「水気立ちのぼりてけぶりのごとし」と言われた歌枕「室の八島」に向かっています。 糸遊に結つきたる煙哉  /  入りかゝる日も糸遊の名残哉  などの句を詠みましたが、いずれも「おくのほそ道」には採用されませんでした。これ以外に今日は三月尽ですから、 鐘つかぬ里は何をか春の暮  などの句も詠んでいますが、さすがに新暦5月18日は春の暮には無理があったようです。 もうひとつ注目したいのは、今日、  あなたふと木の下暗も日の光  と詠んでいることです。季節は明らかに初夏になっていました。この「あなたふと」は、室の八島の祭神このはなさくやひめに対してなのかもしれません。曽良の「旅日記俳諧書留」には、「糸遊に」と「入りかゝる」の句の間にこの句が書かれています。 昨日に引き続き今日も猛暑で、歩き続けるの断念。おかげで間々田での一刻の遅れを、室の八島で追いつき、新栃木回りで早々と鹿沼の宿に到着。申の上刻には湯につかることができました。芭蕉は壬生まわりで「昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼ニ泊ル」。寝息が聞こえるようです。

2023年5月17日(旧暦三月二十八日) 辰上刻、宿を出る。元禄二年三月二十八日(1689年5月17日)

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 「前夜ヨリ雨降ル。辰上刻止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午の下刻止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ入ラズ」と曽良は日記に書いていますが、2023年は晴天酷暑、33度でした。宿を8時半に出ましたから辰の下刻ということになります。それにしても今日は暑かったです。 芭蕉は昨年貞享五年三月二十八日は、吉野で桜を見た後、高野山辺りに居て、 父母のしきりに恋し雉の声  と詠み、同行の万菊丸は  散る花に髻はづかし奥の院  の句を残しています。(このあと、  行く春に和歌の浦にて追いつきたり  を詠みました。)昨年の三月二十八日は新暦の4月27日でしたから桜も散り残っていたのでしょう。元禄二年は雨模様だったのでそれほどでもなかったかもしれませんが、春の暮に今日のような天気だったなら芭蕉もさぞかしびっくりしたに違いありません。 くわの実が熟していましたよ。 芭蕉は、春日部より九里の間々田に泊まりましたが、私は七里歩いて古河泊まりです。

2023年5月16日(旧暦三月二十七日) 芭蕉、旅立つ。元禄二年三月二十七日(1689年5月16日)

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芭蕉、旅立つ。 「弥生も末の七日、 明ぼのゝ空朧々として 、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。」と「おくのほそ道」にありますが、この描写はどう考えても二十七日の朝の月にふさわしくありません。なぜ、芭蕉はあえてこのように書いたのかこのたびの間に考えてみたいと思います。 なお、この部分は「源氏物語」光君と空蝉との後朝の有明が下敷きになっています。 今日芭蕉は千住宿から日光街道を歩き、草加宿を通過して春日部迄脚を延ばし、おくのほそ道の第一夜を春日部宿とします。私もいま同地に居ますが、芭蕉も今夜春日部のどこかの宿で寛いでいるはずです。 「 其日漸草加 と云宿にたどり着にけり」と芭蕉はおくのほそ道の第一日目の宿を草加としました。なぜ事実通りカスカベにしなかったのでしょうか。この謎についても考えてみたいと思います。 左の写真は、日光街道に大切にされ植え継がれている草加の松並木です。今日歩いていますと、ほんの一刻ほど前に芭蕉さんが通って行かれたよって声が聞こえたようでした。

元禄二年三月二十三日(1689年5月12日) Genroku 2nd 3.23(AD1689.5.12)  元禄二年(1689)三月二十三日(農暦)

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今日、2023年5月12日は、旧暦では三月二十三日にあたります。 元禄二年の今日、芭蕉は岐阜の門弟である落梧宛に、「 松島一見のおもひやまず、此廿六日江上を立ち出で候。」と報じています。この「廿六日」は、当時の時制で夜明が日の境とされてましたので、芭蕉は暁前に舟で深川を出立するつもりでと書いたのでしょう。 出立日について私は、まず、十九日の夜に「むつましきかぎりは宵よりつどひ」、曽良の日記にありますように二十日出船して千住に上がったんだと思います。ところが、「 猶其筋余寒ありて白河の便に告げこす人もありければ、多病心もとなしと弥生末つ方まで引とヾめて」と 杉風が書き残しているように、千住で「余寒」情報によって旅立ちをいったん見合わせたのではと推測します。今年もあった 「 岩手県内は 8 日、北部の山間部を中心に季節外れの雪が積もり、海上では暴風となった。」(朝日新聞2023年5月8日)の ような情報が、芭蕉一行にもたらされたのではないでしょうか。次に、二十六日になったのは 「二十六夜待」としゃれこんで、また 「むつましきかぎりは」「 宵よりつどひ」「舟に乗送る」ことを、二十日から二十三日の間決めたのだと憶測しています。

元禄二年(1689)三月二十日 Genroku 2nd 3.20(AD1689.5.9)  元禄二年(1689)三月二十日(農暦)

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 334年前の今日、曽良は日記に「巳三月二十日、同出、深川出船。巳ノ下剋、千住ニ揚ル。」と書き、深川を出立しました。 一方、芭蕉は「おくのほそ道」に、「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々とし」たなか旅立ったと書いています。この食い違いにつきましては従来から諸説ありますが、芭蕉が江戸を旅立ったのは、残されている書簡等から三月二十七日(1689年5月16日)で間違いないようです。ただ、芭蕉は「おくのほそ道」に「月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて」と書いており、この描写を二十七日の朝の月と言うには違和感があります** 。 *曽良が誤って「七」を書き落としている。曽良が先発して何らかの指示を仰ぎに水戸まで行った。のちに「千住御殿(小菅御殿)」と呼ばれるようになる関東郡代伊奈半十郎家の広大な下屋敷で協議していた。芭蕉も同行していたが、余寒のため待機していた。南千住にあった黒羽藩大関家の下屋敷に滞在していた等々。 ** 曽良が出発した朝の月は19日の月、いわゆる寝待の月です。今朝(2023.5.9)残念ながら深川の西空には雲がかかって、有明の月は見ることができませんでしたが、昨夜の写真をあげておきます。(ピンボケですみません) 334 years ago today, on March 20th in the year of Mi, Sora departed from Fukagawa by boat and landed in Senju around 10-11am. On the other hand, in 'Oku no Hosomichi', Basho wrote that he departed on the 27th of the third month of the year, when the dawn sky was misty. From the surviving letters and other documents, it is certain that Basho left Edo on March 27th, 1689. However, Basho continued to write, ' The Narrow Road to Oku ', Basho wrote that he depa

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