投稿についてのご連絡 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 5月 02, 2023 設定を変更しました。Google ID がなくとも投稿できるようになりました。テストでも結構ですから一度やってみてください。 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ コメント
2023年5月16日(旧暦三月二十七日) 芭蕉、旅立つ。元禄二年三月二十七日(1689年5月16日) 5月 16, 2023 芭蕉、旅立つ。 「弥生も末の七日、 明ぼのゝ空朧々として 、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。」と「おくのほそ道」にありますが、この描写はどう考えても二十七日の朝の月にふさわしくありません。なぜ、芭蕉はあえてこのように書いたのかこのたびの間に考えてみたいと思います。 なお、この部分は「源氏物語」光君と空蝉との後朝の有明が下敷きになっています。 今日芭蕉は千住宿から日光街道を歩き、草加宿を通過して春日部迄脚を延ばし、おくのほそ道の第一夜を春日部宿とします。私もいま同地に居ますが、芭蕉も今夜春日部のどこかの宿で寛いでいるはずです。 「 其日漸草加 と云宿にたどり着にけり」と芭蕉はおくのほそ道の第一日目の宿を草加としました。なぜ事実通りカスカベにしなかったのでしょうか。この謎についても考えてみたいと思います。 左の写真は、日光街道に大切にされ植え継がれている草加の松並木です。今日歩いていますと、ほんの一刻ほど前に芭蕉さんが通って行かれたよって声が聞こえたようでした。 続きを読む
2023年10月27日(旧暦九月十三日) 谷木因 元禄二年九月十五日(1689年10月27日) 1月 12, 2024 「此度さまざま御馳走、誠以痛入辱(かたじけなく)奉存候。爰元へ御参詣被成候にやと心待に存候処、いかが被成候哉、御沙汰も無御坐、御残多。云々」と、九月十五日付で芭蕉は大垣の木因宛に参拝の報告、また美濃に行った折にはお目にかかりたと手紙を書いています。 芭蕉と木因とのつながりは、木因や荊口ら大垣俳人が連座した延宝八年(1680)七月興行の「大垣鳴海桑名名古屋四ツ替り」百韻(鳴海の下里知足主催)の加点を、江戸の芭蕉(当時桃青)に受けたことを縁となり、翌九年江戸に下った木因と芭蕉は連句を巻きました。この時、木因の山口素堂訪問に芭蕉も同席し三つ物を残しています。そもそも木因は芭蕉は初対面でしたが、素堂とは同じ北村季吟門下で以前からの知己であったようです。 芭蕉と素堂は延宝二年(1673)以来の俳友です。 芭蕉はこれをきっかけに木因との交遊が始まり、貞享元年(1684)の野晒紀行の途次には「かねてからの約束に従って大垣の木因を訪ね」て、木因亭に長期滞在します。木因はおおいに歓迎、芭蕉と地元の俳人との取り持ち歌仙を巻いたり、芭蕉に同道して尾張や伊勢も訪れ二人で句を残すなどしています*。このような良好な関係はおくのほそ道の旅が終わる頃まで続いていたようですが、本書簡以降の両者間の書簡は残っていません**。上記の伊勢からの手紙にも関わらず、元禄四年十月江戸への帰路の途中大垣での半歌仙興行にどういうわけか木因は連座していませんし、芭蕉は木因亭に立ち寄った様子もないなど、急激に疎遠になったように感じられます。大垣における芭蕉の有力な支援者であったにもかかわらず「おくのほそ道」に木因の名がないのは、やはり不思議です。 左の写真は、野晒の旅の折芭蕉大垣来訪を歓迎して木因が建てたという俳句仕立ての道しるべです。「南いせくわなへ十りさいかう(在郷)みち」と標されています。「桑名へ」と春の季語「桑植う」の子季語になるのでしょうか「桑苗」が懸けられているそうです。なお、この道標は複製で、実物は前に建っています「奥の細道むすびの地記念館」に展示されています。 芭蕉は木因を、加点を求められて始まった関係ですから弟子***として遇していましたが、木因の思いはすこし違ったようです。木因は芭蕉より二歳年長で、延宝四年の季吟「続連珠」に発句五、付句六が入集するなど実績もあり俳諧宗匠として立机もしましたので、 続きを読む
2023年10月18日(旧暦九月四日) むすびの地 元禄二年九月六日(1689年10月18日) 10月 20, 2023 「長月六日になれば、伊勢の遷宮*おがまんと、又舟にのりて、/ 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ」と書き出された「おくのほそ道」は、このように結ばれ、「蛤の」句は結びの句ととして、「弥生も末の七日、(中略) 千しゅと云所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。/ 行春や鳥啼魚の目は泪 / 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。」の旅立ちの「矢立初めの「行春を」句を受けているとともに、又そこに繋がっていきます。 物語は円環を成しています… 結局、芭蕉は八月二十一日に大垣に到着、滞在十五日間に及び、今日木因等富裕な商人たちが店を構える船町の川港から、多くの門弟が見送るなか伊勢に向けた出発しました。如行、木因、曽良、路通は同船しており、越人は港で見送りました。 この日、芭蕉は長島の大智院**に泊り、地元俳人や木因、曽良、路通等と七吟歌仙などを巻き、結局三泊することになります。この時、「伊勢の国長島、大智院に信宿す 憂きわれを寂しがらせよ秋の寺」の色紙を残しています。おくのほそ道の旅を無事終えた芭蕉に「憂き」思いをさせたのは何だったんでしょう… *如水にも説明、「おくのほそ道」本文にも書いていますように、今回の旅立ちは伊勢遷宮参拝の為でした。おくのほそ道のあと、伊勢に参宮することはかなり以前から決めていたことだと思います。芭蕉は前年にも伊勢に参宮していますし、そもそもこの元禄の遷宮の奉行は芭蕉の主家筋である久居藩主の藤堂佐渡守高通でしたので、関係者も芭蕉の知り合いの中にいたかもしれません。内宮の遷宮式は九月十日、外宮は十三日でしたので、大垣はその日に間に合うよう出立しましたが、どういうわけか寄り道して伊勢山田に着いたのは十一日でした。そもそも芭蕉は遷宮式の日には参宮したくなかったのではないかとわたしは疑っています。 **大智院の院主は第四世良成(秀精法師)は、曽良の叔父にあたり、山中温泉で芭蕉に別れ先行した曽良は、八月十五日から九月朔日まで滞在、療養していました。 高通は任口***という俳号を持ち芭蕉に先立って北村季吟から「埋木」伝授を受けており、伊勢神宮神官にも季吟門がいること、この年季吟は幕府歌学方に取り立 続きを読む
コメント
コメントを投稿