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2023年8月11日(旧暦六月ニ十五日) 大波渡・小波渡 元禄二年六月二十六日(1689年8月11日)

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二十五日、不玉父子はじめ大勢の俳人に見送られ酒田を発った芭蕉は、羽前浜街道を浜中宿を通り羽前大山(鶴岡の西約一里)まで行き、低耳の紹介状を添えて丸屋義左衛門方に一宿。平坦な七里程の道中でした。 二十五日、晴。大山から温海宿に向かいます。 この間は、三瀬、小波渡(こばと)、中波渡(なかばと)、大波渡(おおばと)、鬼かけ橋、立岩など難所が連続します。少し手前より雨が降り出したようですが、なんとか無事に温海に到着しました。 芭蕉と曽良は、この地でも低耳の紹介状を持って、鈴木所(惣)左衛門宅に泊まりました。 この家は建て替わっていますが、今も温海の街道に面して残されており、子孫の方が住み続けておられます。表札には、「鈴木惣左衛門」とありました。元禄の頃から代々名乗っておられるのかもしれません。

2023年8月3日(旧暦六月十七日) アイ風吹テ 元禄二年六月十八日(1689年8月3日)

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  十八日は朝から快晴でした。 「早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。」昨日の「其朝天能霽て」はこの日の印象からきているのかもしれません。 朝食後、芭蕉は象潟橋近くの船着き場から船で象潟を発ちます。馬も通れない難所続きの陸路をまた戻ることを厭う芭蕉に対する配慮で、塩越の名主や「みのの商人 低耳」等の手配により、もしかしたら上りの北前船に乗船したのかもしれません。 「アイ風*吹テ山海快。暮二及テ、酒田ニ着。」芭蕉と曽良は船旅を快適に過ごしたようです。再び酒田に入り二十五日の朝まで滞在することになります。この間に「温海山や吹浦かけて夕涼」を発句にした不玉との三吟歌仙などを残します。 *アイ、アイノカゼ、アユノカゼ:船乗りの言葉で、北前船の上方に上る際に順風として利用された。この辺りでは北寄りの東風。ただ、芭蕉と曽良はこの言葉を万葉集によって知っていたと思われます。「東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし那古の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」(大伴家持) 「おくのほそ道」でも市振の段のあと「那古と云浦に出る。」と歌枕に触れています。

2023年8月2日(旧暦六月十六日) 其朝天能霽て 元禄二年六月十七日(1689年8月2日)

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「其朝(あした)天能霽(よくはれ)て*、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先ず能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上(こうしょう)に御陵あり。神功后宮の御墓と云**。寺を干満珠寺と云。(中略) 風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝへ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遥に、海北にかまへて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり。俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」(「おくのほそ道」) *実際は、朝小雨で日が照ったのは午後からでした。「雨後の晴色」を強調するための芭蕉の脚色だと思われます。 **この日の夜、名主の今野又左衛門が芭蕉の許に来ました。曽良の旅日記に「象潟縁起等ノ絶タルヲ嘆ク。翁諾ス。」とあり、この部分等が芭蕉が応えたものでしょう。 芭蕉が訪れて111年後の鳥海山の噴火に続き、115年後に起きた象潟地震によって地盤が隆起、潟湖としての「うらむがごとき」象潟の景観は、失われてしまいました。 しかし、田植えの水入れ時には水面に鳥海山や島影が往時のごとく映りますし、この時期でも一面の葦や稲穂から島々が点々と浮かび上がり、付近を歩き回って古松などを見上げますと、舟から島を見上げているような気分が味わえます。 左の写真は能因島です。芭蕉は「先ず能因島に舟をよせて」と書いていますが、この島であったかどうかは明確ではないようです。現地の説明板によりますと、元禄十四年に領主に提出された島守届には「めぐり島 願誓坊の墓あり 浄専寺」とあり、寛政七年(1795年)の汐越町奉行への届け出に「能因島 浄専寺」となっており、この頃能因島の呼称が公になったそうです。 芭蕉のあと、多くの俳人らが「奥の細道」を歩き、歌枕、俳枕を尋ねています。この「めぐり島」が公に「能因島」となったのは、その結果かもしれません。 芭蕉は、松島では「月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。」と書いています。五月九日の夜のことでした。象潟には六月十六日、十七日に泊りましたが、月については触れていません。曽良の旅日記によりますと、十六日は雨、十七日は「昼ヨリ止ミテ日照。(略) 夕飯過テ、潟ヘ船ニテ出ル。」とあります。十

2023年8月1日(旧暦六月十五日) ウヤムヤノ関 元禄二年六月十六日(1689年8月1日)

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吹浦を発ってすぐまた雨模様となりました。曽良が書き残しています「是ヨリ難所。馬足不通。」の三崎峠を雨の中越え、ウヤムヤ(有耶無耶)の関跡辺りの雨強くなり舟小屋で休み、昼に象潟の塩越宿に着きました。吹浦から四里半ほどの距離ですが、曽良は五里半と書いています。昨日の酒田~吹浦も五里のところ六里としていました。もしかすれば当時の街道は磯・浜伝いでくねくねと長かったのかもしれませんが、芭蕉は「酒田の湊より東北の方、山を越、磯を伝ひ、いさごをふみて其際十里」と書いています。 左の写真は塩越遠望。 三崎峠を越えて、幕府直轄領の小砂川から象潟の本庄藩領に入る所に「関ト云村有(是ヨリ六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。」ウヤムヤ(有耶無耶)の関は、蝦夷を防ぐ古代の関だったといわれる歌枕です。 「むやむやの関」、「ふやむやの関」とも呼ばれ、山形と秋田の県境にあったという説と山形と宮城の県境にあったともいわれる、なんともウヤムヤな関です。 芭蕉が歩いたおくのほそ道には、鮭の孵化場あとは残されていましたが、ウヤムヤの関跡は発見できませんでした。 芭蕉と曽良は、能登屋佐々木孫左衛門を尋ね、「衣類借リテ濡衣干」して、うどんを食べてから、象潟橋まで行って象潟の「雨暮気色」を見物しました。孫左衛門は名主今野又左衛門の義弟で、又左衛門の実弟嘉兵衛と共に三人は酒田の伊藤玄順不玉の俳友でした。 左の写真は、象潟橋から象潟、鳥海山の眺望です。当時は象潟ビューポイントだったそうです。 なお、芭蕉と曽良は酒田から象潟までいくつか関所(番所)を何事もなく通っています。伊藤玄順は荘内藩酒井侯の御典医という立場から、象潟までの通行についても助力したものと思われます。

2023年7月31日(旧暦六月十四日) 甚だ雨 元禄二年六月十五日(1689年7月31日)

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芭蕉は酒田を小雨の中、象潟に向けて立ちましたが、「吹浦ニ至ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。」とあり、大雨の為やむなく途中吹浦(ふくら)で一泊することになりました。 曽良は「此間六リ」と書いています。酒田本町通から吹浦川まで五里ほどの距離ですから、十六羅漢岩のある岬を越えるくらいまで行って泊まったのかもしれません。 吹浦の地名からうかがえるように、昔から強い風が吹きつける地域だったのでしょう。現在岬には風力発電所があり、4基の風車塔がそびえています。 左の写真奥に見える山は、羽前と羽後との国境である三崎峠で、芭蕉と曽良が明日越えることになる「難所」です。

2023年7月30日(旧暦六月十三日) 暑き日を海に入れたり 元禄二年六月十四日(1689年7月30日)

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酒田の豪商寺島彦助安種亭令道(詮道)宅に招かれて、芭蕉の「涼しさを海に入たる最上川」を発句に、不玉らと七吟歌仙を巻きました。寺島邸は豪商が軒を並べる本町通にあり、港からも近く寺島彦助は浦役人も務めていました。 同句は、おくのほそ道に「暑き日を海にいれたり最上川」と直され収録されました。 酒田港は最上川の河口に位置し、河口を二分するように川の中央に埠頭が設けられています。その埠頭には、日本一周中の東京海洋大学の練習船が停泊していました。

2023年7月29日(旧暦六月十二日) 船の上七里也 元禄二年六月十三日(1689年7月29日)

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  十三日、長山邸にほど近い内川の船乗場から芭蕉は、赤川を経て酒田の最上川河口に向かいました。七里約半日を要したそうです。 途中少し雨が降ったようですが止み、夕方酒田に無事到着ししました。 「川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師(くすし)の許を宿とす。」不玉は、伊藤玄順、もと大淀三千風門下の俳人医師でした。

2023年7月26日(旧暦六月九日) 山をいで羽の初茄子 元禄二年六月十日(1689年7月26日)

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三日から羽黒山に逗留していた芭蕉は、十日、本坊でお昼い蕎麦やお酒をごちそうになってから鶴岡に向かいます。芭蕉はだいぶ蕎麦が好きだったようです。「蕎麦切・誹諧は都の土地に応ぜず」と芭蕉が言ったとの話も残されています。ひょっとしたら、おくのほそ道の旅を通じて蕎麦好きになったのかもしれません… 「羽黒を立て、鶴ヶ岡の城下、長山氏重行と云物のふ(武士)の家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。」(「おくのほそ道」)と露丸も同行して、「申ノ刻、鶴ヶ岡長山五良右衛門宅に至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル」(曽良「旅日記」)と、芭蕉は食欲旺盛です。 歌仙の発句は芭蕉の、めづらしや山をいで羽の初茄子 粥に、添えられていた茄子がきっと冷っとして美味しかったのでしょう。ただ、翌日芭蕉は「不快故、昼程中絶ス」と、歌仙を中断しています。写真は、鶴岡市日枝神社近くの芭蕉が3泊した長山邸跡。

2023年7月23日(旧暦六月六日) 他言する事を禁ず 元禄二年六月七日(1689年7月23日)

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「臥して明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。」 月山山頂の「角兵衛小ヤ」に泊まった芭蕉と曽良は、この日湯殿山神社本宮を参詣します。「此山中の微細(みさい)、行者の方式として他言する事を禁ず。仍て筆をとどめて記さず」 語られぬ湯殿にぬらす袂かな 芭蕉 月山山頂の朝夕に、芭蕉たちは「ブロッケン現象」を楽しみにしていたようです。しかし、「雲晴テ来光ナシ。」と、残念ながら見ることができませんでした。 湯殿から昼頃月山山頂に戻り、そのまま羽黒山南谷まで下山します。月山山頂から湯殿山神社本宮*往復約8km、高低差700m。そこから高低差1900m、30km余りを下るのですから昨日より一層厳しい行程です。羽黒まで三里、四合目の強清水(こわしみず)に弁当を持って迎えが来ていたようですが、健脚ぶりには驚くしかありません。「及暮、南谷ニ帰。甚労ル。」 *湯殿山神社本宮のから2㎞程麓の仙人沢と鶴岡駅間のバス便がかつてありましたが、今は廃止されおり、徒歩旅行では月山も湯殿山もたいへん遠くなりました。

2023年7月22日(旧暦六月五日) 天気吉。登山。 元禄二年六月六日(1689年7月22日)

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 いよいよ月山に登ります。本文には「八日」とありますが、六日のことでした。 「雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の運関に入るかとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻(いた)れば、日没て月顕る。」 雲の峰幾つ崩て月の山 芭蕉 今はバス便*があります八合目の弥陀ヶ原まで七里。芭蕉はここで昼ご飯を食べて、雪渓を踏みしめて頂上にある月山神社に、「申ノ上刻」(15時頃)到着しました。30km余り、高低差1900m。途中まで馬を使ったとしても大したものです。 *2023年はシーズンの7~9月の土日・祝日を中心にエスモール・鶴岡駅から運行されていますが、年々少なくなっているように思います。利用の場合は注意が必要です。

2023年7月21日(旧暦六月四日) 断食して注連掛く 元禄二年六月五日(1689年7月21日)

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  芭蕉と曽良は、この日断食をして、紙垂を垂らした注連縄を掛け、三山巡礼の為に潔斎を済ませ、まず羽黒権現*に参詣しました。 涼しさやほの三か月の羽黒山 芭蕉 「五日**、権現に詣。(中略)月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観の(略)僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長(とこしなへ)にして、めで度御山と謂つべし」と芭蕉は書いています。 現在、出羽三山神社では五重塔の屋根杮葺きの葺き替え工事など改修工事が行われており、建物回りに足場などが組まれたりしているのは残念でした。 *羽黒三山神社HPに拠りますと「 明治の神仏分離 後、大権現号を 廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。」とあります。また社殿は文政元年建築のもので、今は総朱塗りですが当時は赤松脂塗だったそうです。  **曽良旅日記には「五日 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連(しめ)カク。夕飯過テ、先、羽黒ノ神前ニ詣ズ。」とあります。

2023年7月20日(旧暦六月三日) 本坊ヘ蕎切にて招かる 元禄二年六月四日(1689年7月20日)

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「四日、本坊において俳諧興行。」と「おくのほそ道」にありますように、芭蕉はお昼、羽黒山別当代和交院会覚阿闍梨に謁見、蕎麦切りをごちそうになって、「有難や雪をかほらす風の音」を発句に歌仙を巻きます。脇は露丸の「住程人のむすぶ夏草」、第三は曽良「川船のつなに蛍を引立て」でした。 歌仙はこの日、一の折表六句で終わり、翌日に詠み継がれ、そして月山・湯殿山参拝を挟み九日、会覚の花の句「盃のさかなに流す花の浪」に進み満尾することになります。 明治時代の神仏分離施策・廃仏棄釈運動の結果、現在、羽黒山別当寺の本坊や会覚が居住した南谷別院などは一切残っていません。木々の間に、ただ夏草が蔓延るばかりです。