2023年7月29日(旧暦六月十二日) 船の上七里也 元禄二年六月十三日(1689年7月29日) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 8月 11, 2023 十三日、長山邸にほど近い内川の船乗場から芭蕉は、赤川を経て酒田の最上川河口に向かいました。七里約半日を要したそうです。途中少し雨が降ったようですが止み、夕方酒田に無事到着ししました。「川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師(くすし)の許を宿とす。」不玉は、伊藤玄順、もと大淀三千風門下の俳人医師でした。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
2023年10月27日(旧暦九月十三日) 谷木因 元禄二年九月十五日(1689年10月27日) 1月 12, 2024 「此度さまざま御馳走、誠以痛入辱(かたじけなく)奉存候。爰元へ御参詣被成候にやと心待に存候処、いかが被成候哉、御沙汰も無御坐、御残多。云々」と、九月十五日付で芭蕉は大垣の木因宛に参拝の報告、また美濃に行った折にはお目にかかりたと手紙を書いています。 芭蕉と木因とのつながりは、木因や荊口ら大垣俳人が連座した延宝八年(1680)七月興行の「大垣鳴海桑名名古屋四ツ替り」百韻(鳴海の下里知足主催)の加点を、江戸の芭蕉(当時桃青)に受けたことを縁となり、翌九年江戸に下った木因と芭蕉は連句を巻きました。この時、木因の山口素堂訪問に芭蕉も同席し三つ物を残しています。そもそも木因は芭蕉は初対面でしたが、素堂とは同じ北村季吟門下で以前からの知己であったようです。 芭蕉と素堂は延宝二年(1673)以来の俳友です。 芭蕉はこれをきっかけに木因との交遊が始まり、貞享元年(1684)の野晒紀行の途次には「かねてからの約束に従って大垣の木因を訪ね」て、木因亭に長期滞在します。木因はおおいに歓迎、芭蕉と地元の俳人との取り持ち歌仙を巻いたり、芭蕉に同道して尾張や伊勢も訪れ二人で句を残すなどしています*。このような良好な関係はおくのほそ道の旅が終わる頃まで続いていたようですが、本書簡以降の両者間の書簡は残っていません**。上記の伊勢からの手紙にも関わらず、元禄四年十月江戸への帰路の途中大垣での半歌仙興行にどういうわけか木因は連座していませんし、芭蕉は木因亭に立ち寄った様子もないなど、急激に疎遠になったように感じられます。大垣における芭蕉の有力な支援者であったにもかかわらず「おくのほそ道」に木因の名がないのは、やはり不思議です。 左の写真は、野晒の旅の折芭蕉大垣来訪を歓迎して木因が建てたという俳句仕立ての道しるべです。「南いせくわなへ十りさいかう(在郷)みち」と標されています。「桑名へ」と春の季語「桑植う」の子季語になるのでしょうか「桑苗」が懸けられているそうです。なお、この道標は複製で、実物は前に建っています「奥の細道むすびの地記念館」に展示されています。 芭蕉は木因を、加点を求められて始まった関係ですから弟子***として遇していましたが、木因の思いはすこし違ったようです。木因は芭蕉より二歳年長で、延宝四年の季吟「続連珠」に発句五、付句六が入集するなど実績もあり俳諧宗匠として立... 続きを読む
2023年5月16日(旧暦三月二十七日) 芭蕉、旅立つ。元禄二年三月二十七日(1689年5月16日) 5月 16, 2023 芭蕉、旅立つ。 「弥生も末の七日、 明ぼのゝ空朧々として 、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。」と「おくのほそ道」にありますが、この描写はどう考えても二十七日の朝の月にふさわしくありません。なぜ、芭蕉はあえてこのように書いたのかこのたびの間に考えてみたいと思います。 なお、この部分は「源氏物語」光君と空蝉との後朝の有明が下敷きになっています。 今日芭蕉は千住宿から日光街道を歩き、草加宿を通過して春日部迄脚を延ばし、おくのほそ道の第一夜を春日部宿とします。私もいま同地に居ますが、芭蕉も今夜春日部のどこかの宿で寛いでいるはずです。 「 其日漸草加 と云宿にたどり着にけり」と芭蕉はおくのほそ道の第一日目の宿を草加としました。なぜ事実通りカスカベにしなかったのでしょうか。この謎についても考えてみたいと思います。 左の写真は、日光街道に大切にされ植え継がれている草加の松並木です。今日歩いていますと、ほんの一刻ほど前に芭蕉さんが通って行かれたよって声が聞こえたようでした。 続きを読む
2023年7月3日(旧暦五月十六日) 木の下闇茂りあひて 元禄二年五月十七日(1689年7月3日) 7月 20, 2023 「あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越(こゆ)べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟(くっきゃう)の若者、反脇差をよこたえ、樫の棒を携て、我々が先に立て行。」 元禄二年五月十七日(1689年7月3日)、快晴となり堺田を発ちます。庄屋から道もはっきりしない「大山」を越えると聞かされて、「中山」越えでさえ難渋した芭蕉は恐れをなしたに違いありません。 「高山森々として一鳥声をきかず、木の下闇茂りあひて、夜行(ゆく)がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分(ふみわけふみわけ)、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して」山刀伐(なたぎり)峠*を越えました。 峠は一部ブナの原生林の間の旧道も残り、往年の雰囲気が維持されている「おくのほそ道」でも出色の山道でした。ほーほーとミミヅクの声をききましたけど。 曽良の旅日記では、堺田から一里半で新庄藩の笹森関があり、そこから三里余りに最上代官所の関があって、「昼過、清風へ着」と、道中の難儀さには触れられていず、関(番所)もスムーズに通過できたようです。尾花沢は幕府直轄地で代官所がおかれていました。その関は「百姓番也。関ナニトヤラ云村也。」と書かれていますが、関谷という村にありました。 堺田から尾花沢清風邸まで七里程ありますから、そこを昼過ぎに到着したということは、おくのほそ道本文にあるほど厳しい道中ではなかったようです。もっとも尾花沢から二里半の関谷に、清風の使いが馬を用意して出迎えに来ていたそうです。 *山刀伐(なたぎり)峠は、ナタで伐採しながらでないと進むことができないタイヘンな峠といった意味合いで名づけられたのではと思っていましたが、「なたぎり」という山作業の際に頭を保護するガマで作ったヘルメットのような被り物に、峠の形が似ているところからきているそうです。 左の写真が「なたぎり」です。わかりにくくて申し訳ないのですけど、下を前に、上が頭のうしろになるようにして被ります。横からその形を見れば、ひらがなの「つ」のように尾花沢側(前)からはなだらかで、最上側(後)は急坂な峠の形に似ているのでとのことです。なお、二つ目玉のようなものは、日除けカバー様の布が付いて頭の後ろと首を守っており、その布を止付け部です。 続きを読む
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