2023年7月29日(旧暦六月十二日) 船の上七里也 元禄二年六月十三日(1689年7月29日) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 8月 11, 2023 十三日、長山邸にほど近い内川の船乗場から芭蕉は、赤川を経て酒田の最上川河口に向かいました。七里約半日を要したそうです。途中少し雨が降ったようですが止み、夕方酒田に無事到着ししました。「川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師(くすし)の許を宿とす。」不玉は、伊藤玄順、もと大淀三千風門下の俳人医師でした。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
2023年5月16日(旧暦三月二十七日) 芭蕉、旅立つ。元禄二年三月二十七日(1689年5月16日) 5月 16, 2023 芭蕉、旅立つ。 「弥生も末の七日、 明ぼのゝ空朧々として 、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。」と「おくのほそ道」にありますが、この描写はどう考えても二十七日の朝の月にふさわしくありません。なぜ、芭蕉はあえてこのように書いたのかこのたびの間に考えてみたいと思います。 なお、この部分は「源氏物語」光君と空蝉との後朝の有明が下敷きになっています。 今日芭蕉は千住宿から日光街道を歩き、草加宿を通過して春日部迄脚を延ばし、おくのほそ道の第一夜を春日部宿とします。私もいま同地に居ますが、芭蕉も今夜春日部のどこかの宿で寛いでいるはずです。 「 其日漸草加 と云宿にたどり着にけり」と芭蕉はおくのほそ道の第一日目の宿を草加としました。なぜ事実通りカスカベにしなかったのでしょうか。この謎についても考えてみたいと思います。 左の写真は、日光街道に大切にされ植え継がれている草加の松並木です。今日歩いていますと、ほんの一刻ほど前に芭蕉さんが通って行かれたよって声が聞こえたようでした。 続きを読む
2023年10月27日(旧暦九月十三日) 谷木因 元禄二年九月十五日(1689年10月27日) 1月 12, 2024 「此度さまざま御馳走、誠以痛入辱(かたじけなく)奉存候。爰元へ御参詣被成候にやと心待に存候処、いかが被成候哉、御沙汰も無御坐、御残多。云々」と、九月十五日付で芭蕉は大垣の木因宛に参拝の報告、また美濃に行った折にはお目にかかりたと手紙を書いています。 芭蕉と木因とのつながりは、木因や荊口ら大垣俳人が連座した延宝八年(1680)七月興行の「大垣鳴海桑名名古屋四ツ替り」百韻(鳴海の下里知足主催)の加点を、江戸の芭蕉(当時桃青)に受けたことを縁となり、翌九年江戸に下った木因と芭蕉は連句を巻きました。この時、木因の山口素堂訪問に芭蕉も同席し三つ物を残しています。そもそも木因は芭蕉は初対面でしたが、素堂とは同じ北村季吟門下で以前からの知己であったようです。 芭蕉と素堂は延宝二年(1673)以来の俳友です。 芭蕉はこれをきっかけに木因との交遊が始まり、貞享元年(1684)の野晒紀行の途次には「かねてからの約束に従って大垣の木因を訪ね」て、木因亭に長期滞在します。木因はおおいに歓迎、芭蕉と地元の俳人との取り持ち歌仙を巻いたり、芭蕉に同道して尾張や伊勢も訪れ二人で句を残すなどしています*。このような良好な関係はおくのほそ道の旅が終わる頃まで続いていたようですが、本書簡以降の両者間の書簡は残っていません**。上記の伊勢からの手紙にも関わらず、元禄四年十月江戸への帰路の途中大垣での半歌仙興行にどういうわけか木因は連座していませんし、芭蕉は木因亭に立ち寄った様子もないなど、急激に疎遠になったように感じられます。大垣における芭蕉の有力な支援者であったにもかかわらず「おくのほそ道」に木因の名がないのは、やはり不思議です。 左の写真は、野晒の旅の折芭蕉大垣来訪を歓迎して木因が建てたという俳句仕立ての道しるべです。「南いせくわなへ十りさいかう(在郷)みち」と標されています。「桑名へ」と春の季語「桑植う」の子季語になるのでしょうか「桑苗」が懸けられているそうです。なお、この道標は複製で、実物は前に建っています「奥の細道むすびの地記念館」に展示されています。 芭蕉は木因を、加点を求められて始まった関係ですから弟子***として遇していましたが、木因の思いはすこし違ったようです。木因は芭蕉より二歳年長で、延宝四年の季吟「続連珠」に発句五、付句六が入集するなど実績もあり俳諧宗匠として立... 続きを読む
2023年9月27日(旧暦八月十三日) 難所木ノ芽峠を越える 元禄二年八月十四日(1689年9月27日) 10月 09, 2023 先行した曽良は、「九日 快晴 日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右ニ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火ウチガ城、十丁程行テ、左リ、カヘル(帰)山有。下ノ村、カヘル(帰)ト云。未ノ刻、ツルガニ着。」今庄を6時過ぎに出発、14時頃に敦賀に着いています。その距離約27㎞、500mほど上る峠です。「かへる山」はこの峠のある山塊全体を指すようで、今も福井県を嶺南、嶺北の二つの地域に分ける「嶺」です。なお、「かへる山」は枕草子の「山は」の条に名が挙がっている歌枕です。 芭蕉も同じコース*を取り、「燧が城、かへるやまに初雁を聞きて、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」到着は夕ぐれとありますから、曽良よりは少し時間が掛かったようです。 *木ノ芽峠ではなく山中峠を越えて敦賀に出たという説もあります。この説では今庄と敦賀の間で一泊したことになります。 私は、28日に木ノ芽峠を越えましたが、去年・今年と二年続きの大雨の為多くの箇所が崩れ、修復工事途上にあり、山道は手つかずのところもありました。「板橋ノツメヨリ右ニ切テ」と曽良が書いている鹿蒜(かひる)川沿いの旧北国街道も通行止めとなっていましたが、なんとかショベルカーやダンプカーの横を通らせてもらいました。峠の上り下りも崩れや倒木等により足元が悪く、なかなかの難所越えとなりました。 峠には元福井藩の御茶店番だった藁屋根の家が残り、末裔の方が今も住まわれています。 木ノ芽峠は北陸道の要所でしたから、古来より越えた人は多く、平安から鎌倉時代には紫式部・平維盛・木曽義仲・親鸞・道元など、南北朝では新田義貞・蓮如、戦国では信長・秀吉なども通っています。もちろん朝倉義景や柴田勝家も何度も越えた事でしょうし、お市の方と初、江、茶々三姉妹も。なお、新田義貞の軍勢の多くはこの峠で凍死したとのことです。 峠から敦賀に下る途中に「よぶ坂」という急峻な坂があります。長徳三年(997年)父清原元輔の赴任地であった越前からの帰京の際、紫式部はここで歌を詠んでいます。「都の方へとて帰る山越えけるに、よび坂といふなる所の、いとわりなきかけ路に輿もかきわづらふをおそろしと思ふに猿の木の葉の中よりいと多く出で来たれば / 猿(まし)もなほ遠方(をちかた)人の声かはせわれ越しわぶる手児(たこ)の呼坂」 続きを読む
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