2023年8月2日(旧暦六月十六日) 其朝天能霽て 元禄二年六月十七日(1689年8月2日)

「其朝(あした)天能霽(よくはれ)て*、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先ず能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上(こうしょう)に御陵あり。神功后宮の御墓と云**。寺を干満珠寺と云。(中略) 風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝへ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遥に、海北にかまへて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり。俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」(「おくのほそ道」)

*実際は、朝小雨で日が照ったのは午後からでした。「雨後の晴色」を強調するための芭蕉の脚色だと思われます。 **この日の夜、名主の今野又左衛門が芭蕉の許に来ました。曽良の旅日記に「象潟縁起等ノ絶タルヲ嘆ク。翁諾ス。」とあり、この部分等が芭蕉が応えたものでしょう。

芭蕉が訪れて111年後の鳥海山の噴火に続き、115年後に起きた象潟地震によって地盤が隆起、潟湖としての「うらむがごとき」象潟の景観は、失われてしまいました。

しかし、田植えの水入れ時には水面に鳥海山や島影が往時のごとく映りますし、この時期でも一面の葦や稲穂から島々が点々と浮かび上がり、付近を歩き回って古松などを見上げますと、舟から島を見上げているような気分が味わえます。

左の写真は能因島です。芭蕉は「先ず能因島に舟をよせて」と書いていますが、この島であったかどうかは明確ではないようです。現地の説明板によりますと、元禄十四年に領主に提出された島守届には「めぐり島 願誓坊の墓あり 浄専寺」とあり、寛政七年(1795年)の汐越町奉行への届け出に「能因島 浄専寺」となっており、この頃能因島の呼称が公になったそうです。
芭蕉のあと、多くの俳人らが「奥の細道」を歩き、歌枕、俳枕を尋ねています。この「めぐり島」が公に「能因島」となったのは、その結果かもしれません。

芭蕉は、松島では「月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。」と書いています。五月九日の夜のことでした。象潟には六月十六日、十七日に泊りましたが、月については触れていません。曽良の旅日記によりますと、十六日は雨、十七日は「昼ヨリ止ミテ日照。(略) 夕飯過テ、潟ヘ船ニテ出ル。」とあります。十七日も夜は曇っていて月は見えなかったのではないかと思います。
わたしは、松島は雨に降られましたが、象潟では芭蕉の見ることができなかった月を見ることができました。ただ、塩越のまちの灯が明るかったですが…



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