2023年8月1日(旧暦六月十五日) ウヤムヤノ関 元禄二年六月十六日(1689年8月1日)

吹浦を発ってすぐまた雨模様となりました。曽良が書き残しています「是ヨリ難所。馬足不通。」の三崎峠を雨の中越え、ウヤムヤ(有耶無耶)の関跡辺りの雨強くなり舟小屋で休み、昼に象潟の塩越宿に着きました。吹浦から四里半ほどの距離ですが、曽良は五里半と書いています。昨日の酒田~吹浦も五里のところ六里としていました。もしかすれば当時の街道は磯・浜伝いでくねくねと長かったのかもしれませんが、芭蕉は「酒田の湊より東北の方、山を越、磯を伝ひ、いさごをふみて其際十里」と書いています。

左の写真は塩越遠望。

三崎峠を越えて、幕府直轄領の小砂川から象潟の本庄藩領に入る所に「関ト云村有(是ヨリ六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。」ウヤムヤ(有耶無耶)の関は、蝦夷を防ぐ古代の関だったといわれる歌枕です。
「むやむやの関」、「ふやむやの関」とも呼ばれ、山形と秋田の県境にあったという説と山形と宮城の県境にあったともいわれる、なんともウヤムヤな関です。
芭蕉が歩いたおくのほそ道には、鮭の孵化場あとは残されていましたが、ウヤムヤの関跡は発見できませんでした。

芭蕉と曽良は、能登屋佐々木孫左衛門を尋ね、「衣類借リテ濡衣干」して、うどんを食べてから、象潟橋まで行って象潟の「雨暮気色」を見物しました。孫左衛門は名主今野又左衛門の義弟で、又左衛門の実弟嘉兵衛と共に三人は酒田の伊藤玄順不玉の俳友でした。

左の写真は、象潟橋から象潟、鳥海山の眺望です。当時は象潟ビューポイントだったそうです。

なお、芭蕉と曽良は酒田から象潟までいくつか関所(番所)を何事もなく通っています。伊藤玄順は荘内藩酒井侯の御典医という立場から、象潟までの通行についても助力したものと思われます。

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