2023年9月22日(旧暦八月八日) 「丸岡」 元禄二年八月九日(1689年9月22日)

おくのほそ道には、「丸岡天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ。」とあります。天竜寺は松岡にありますので、芭蕉が「松岡」を「丸岡」と誤って記したものとされています。それはともかく、芭蕉は丸岡に宿泊したという説に従い、今日九日に丸岡から松岡に移動したとします。丸岡と松岡間は二里、徒歩2時間の距離です。

曽良は七日全昌寺を発って吉崎等を廻り。「申ノ下刻、森岡ニ着。六良兵衛ト云者ニ宿ス。八日 快晴。森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ(略)巳ノ刻前ニ福井ヘ出ヅ」と旅日記に記しています。この「森岡」は、「森田」を誤ったものとして、九頭竜川に架かる船橋北詰の稲多宿を指すと考えられていますが、9月20日に書きましたように福井への歩行時間から言って疑問が残ります。芭蕉、曽良とも「丸岡」に関係した誤記をしているのは少し不思議です。じつは当時丸岡藩はお家騒動の渦中にあり、6年後の元禄八年丸岡本多藩は御取り潰しとなっています。何か関係があるのでしょうか…

丸岡城下から半里余西の長崎の地に、称念寺という時宗の寺院があります。時宗二世他阿真教上人*が時宗に改めて北陸布教の拠点にし長崎道場と呼ばれ隆盛を極め、朝倉氏など時の権力者の庇護を受ける有力寺院でした。称念寺には新田義貞の墓所があります。

芭蕉はおくのほそ道の旅を終えて、式年遷宮の伊勢神宮参拝に向かいます。九月十二日から伊勢山田の又玄宅に寄宿し、芭蕉は又玄の妻に「明智が妻」句文を書き与えることになります。今日からひと月ほど後のことです。下級御師の貧しい生活の中、甲斐々しく芭蕉をもてなす妻に報いるためであったのでしょう。「将軍明智が貧の昔、連歌会営みかねて侘び侍れば、その妻ひそかに髪を切りて会の料に供ふ。(略)」と前書して「月さびよ明智が妻の話せん 又玄子妻にまゐらす」との真蹟懐紙が残っています。じつはこのエピソードは、明智が浪人となって丸岡の称念寺門前で侘び住まいしていた頃のものと言われています。明智はこの内助の功あって朝倉氏に仕官が叶うということになっています。

私は松岡に行く前にこの称念寺を芭蕉は訪れたと推測しています。**

*敦賀の条で「往昔(そのかみ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて」砂持行事を始めたと芭蕉が書いている、「二世」その人の事です。 **同寺の説明板によりますと八月八日立ち寄って月さびよの句を詠んだとあります。昨日丸岡に到着した際に訪問した可能性はゼロではありませんが、この句は、やはり九月の月の頃、伊勢山田の又玄宅で詠まれたものと思います。もしかして曽良が称念寺に八日立ち寄っていたとすれば、旅日記の「森岡」は「丸岡」のこととなります。


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