2023年9月21日(旧暦八月七日) 無用の指 元禄二年八月八日(1689年9月21日)
全昌寺に一泊した芭蕉は、すぐ近くにあった大聖寺の関を出発しました。七月十三日境関所から加賀藩に入って以来ひと月近くたった今日やっと加賀藩を通り抜けることになりました。大聖寺藩は加賀藩の支藩で、関所は加賀藩の管轄です。
この日芭蕉は、前日の曽良とほぼ同じコースを取り、北国街道から寄り道して吉崎を訪ね、北潟を経由して福井藩の細呂木関所を通過、金津の宿(今のあわら)で夕立に遭い総持寺の門前で雨宿り*、丸岡城下に到ります**。
なお、加賀と越前との国境は吉崎にあって、現在も石川県加賀市吉崎と福井県あわら市吉崎と町の真ん中を県境線が引かれ、両県にまたがっている家があったりします。加賀一向一揆の名残りもあるんでしょうか。
「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。 / 終宵嵐に波をはこばせて 月もたれたる汐越の松 西行」とおくのほそ道にありますが、この和歌は西行の作ではなく蓮如だそうです***。「此一首に数景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。」芭蕉は絶賛ですけど… 左写真:左向こうが塩越。手前が北潟の北端。
*総持寺には寛延二年に建立されたという「雨夜塚」が残されあわら市の文化財に指定されています。説明板には芭蕉が吉崎から金津宿に着いたのは八月十日と書かれています。これに従えば、芭蕉は曽良の3日後に大聖寺を発ったことになります。**次9月22日の条参照。 ***蓮如詠との確証もないようで、「夜々の嵐になみをはこばせて月をたれたるしほこしの松」という塩越に伝えられた名所歌の初五句を「終宵」に芭蕉が改めたとの説もあります。
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