2023年6月23日(旧暦五月六日) 風流のしれもの 元禄二年五月七日(1689年6月23日)
「爰(ここ)に画工加右衛門と云ものあり。聊(いささか)心ある者と聞て、知る人になる。」
芭蕉は五月七日、伊達家が将軍家への忠誠を体現する東照宮をはじめ仙台の名所、宮城野、玉田・よこ野・つつじが岡や木の下、薬師堂などを大淀三千綱の高弟である加右衛門(俳号加之)に案内してもらいましたが、おくのほそ道には東照宮参詣は触れられていません。
現在、宮城野、玉田・よこ野の面影は全くと言っていいほど残されておらず、つつじが岡、木の下は整備された公園の中にわずかに偲ばれる程度ですが、当時芭蕉が見たままの承応三年(1654年)伊達家重臣等寄進の石灯籠*が、30基余りも居並ぶ東照宮と陸奥国分寺跡の薬師堂は現存しており、芭蕉が案内されたこれらを廻るコースは、国分町を起点に半日足らずで歩くことができます。
*万治(1658~1661年)の頃、放蕩三昧の三代藩主綱宗隠居と嫡子亀千代の家督相続に端を発する伊達騒動は、寛文十一年(1671年)大老酒井忠清の介入により一旦解決しましたが、連座した伊達家一族や多くの家臣が処分されました。この時処分排除された家門が寄進していた石灯籠は取り除かれ、一部天和二年(1682年)に新たに追加されています。芭蕉が訪れた時はまだ真新しい石灯籠が見分けられ、伊達騒動の記憶を蘇らせたでしょう。なお、伊達騒動の終止符は、元禄十六年(1703年)の四代藩主綱村の隠居迄待たなくてはなりませんでした。
芭蕉はこの日の夜、加右衛門に、短冊2枚(「関守の」句と「笠島や」句)と横物一幅「しのぶの郡、しのぶ摺の石は、茅の下に埋れ果て、いまは其わざもなかりければ、風流のむかしにおとろふる事ほいなくて / 五月乙女にしかた望んしのぶ摺 翁」を書き与えました。
お礼に加右衛門は、ほし飯一袋とわらじ2足を持参します。「紺の染緒つけたる草鞋二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。/ あやめ草足に結ん草鞋の緒」
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