2023年6月21日(旧暦五月四日) 仙台 元禄二年五月五日(1689年6月21日)
「旅宿をもとめて、四、五日逗留す。」
曽良旅日記には「五日 橋本善右衛門殿へ之状、翁持参。山口与次衛門丈ニテ宿ヘ断有。須か川吾妻五良七ヨリ之状、私持参、大町弐丁目泉屋彦兵へ内、甚兵衛方へ届。甚兵衛留守。其後、此方へ見廻、逢也。三千風尋ルニ不知。其後、北野屋嘉衛門(国分町ヨリ立町へ入、左ノ門ノ家の内)ニ逢う、委知ル。」とあります。
昨日、白石からの強行軍の理由はこれらの紹介状にあったのではないかと思います。
橋本善右衛門は六百石取りの仙台藩士、御譜代町筆頭の大町の泉屋は豪商で甚兵衛はその係累だったのでしょう。たぶん芭蕉一行が五月四日仙台に入り、翌五日紹介状を持参する旨、等躬が事前の知らせていたのではと思います。もしかしたら仙台俳壇を率いる大淀三千風に手紙で依頼していたのかもしれません。
曽良俳諧書留に「泉や甚兵へに遣スの発句・前書。」として「中将実方の塚の薄も、道より一里ばかり左りの方にといへども、雨ふり、日も暮に及侍れば、わりなく見過ごしけるに、笠島といふ所にいづるも、五月雨の折にふれければ / 笠島やいづこ五月のぬかり道 翁」と記しています。この書面と「関守の宿をくいなにとふものを」の短冊を一枚を七日夜、甚兵衛に書き与えています。挑戦的でちょっと嫌味がはいっているように感じます。芭蕉は期待していたにもかかわらず、仙台での俳席が設けられず残念だったに違いありません。
前日当方は、自動車の多い奥州街道に早めに見切りをつけ南仙台からJRにて仙台入り、新築なった国分町のホテルに早々にチェックイン。誰もいない温泉でゆっくり旅の疲れを癒しました。
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