2023年6月20日(旧暦五月三日) ぬかり道 元禄二年五月四日(1689年6月20日)

 

「白石の城を過、笠島の郡*に入れば、籐中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、『是より遥(はるか)右**に見ゆる山際の里を、みのわ笠島と云、道祖神の社、かた身の薄、今にあり』と教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過るに、簑輪・笠島も五月雨にふれたりと、/ 笠島はいづこさ月のぬかり道」と本文。そして「岩沼に宿る。」に続きます***。

「笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左**ノ方一里計有。三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過ギ不見。」と曽良旅日記。

*名取郡のところ「笠島の郡」としています。 **奥州街道を下ってますから実方塚は、曽良の旅日記記載の通り左手にあたります。芭蕉は上りの道中に仮構してこの部分を書いています。そのため郡名を架空の「笠島の郡」としてのでしょう。***芭蕉はこの日の行程の岩沼と笠島を逆転させて書いています。

四日は出立前に雨が止み、「折々日ノ光見ル」天候でした。

室の八島、あさか沼、安達原など実方に因む歌枕を尋ね来た芭蕉が、普通なら西行も歌を詠んだ実方塚を訪れ形見の薄を見学しないはずがないと思います。芭蕉と曽良はこの日、白石を発って「夕方仙台ニ着」きました。十三里近くの距離ですからかなり強行軍で、増田宿(名取)の手前でまだ仙台まで五里ほどありましたので、何らかの事情で先を急いだものか、単に行き過ぎたのかのどちらかでしょう。奥州街道から二里足らずの寄り道をしなかったのは、天候やぬかり道のせいではないと思います。

 「名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。」と本文、旅日記に「其夜、宿国分町大崎庄左衛門」。「あやめふく」は、端午の節句の前の日に邪気、災厄をはらうため軒に菖蒲をさすことですから、本文でも五月四日に仙台に到着しています。写真右は、実方が落馬して命を落としたといわれる道祖神社の参道。中は、西行が偲んだ実方塚のかた身の薄です。


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