2023年6月19日(旧暦五月二日) 伊達の大木戸 元禄二年五月三日(1689年6月19日)
「気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす」
曽良の旅日記には「桑折トかいたの間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有(国見峠ト云山有)」と書き残されています。福島県伊達郡保原町国見町大木戸長坂に、奥州街道の国見峠長坂跡があります。
律令時代の東山道以来の坂ともいわれるようですが、源頼朝に恭順の意を示すために父秀衡の遺言を破り義経を討った藤原泰衡が逆に追討されることとなり、泰衡は文治五年(1189年)鎌倉軍をこの地で迎え撃つべく防御陣地を築きました。阿津賀志山(国見山)から三重の土塁と二条の堀を阿武隈川まで構築した大がかりな防塁(「阿津賀志山防塁」)で、義兄である国衡が本陣(大木戸)を置きました。
吾妻鏡に、阿津賀志山前に陣を引いた鎌倉軍の大軍に藤原方は敗れ「大木戸」に戻り大将軍国衡に敗北の報告をしたとあり、また、石那坂の戦いで敗れた信夫郡・伊達郡の庄司佐藤基治ら18人の首を阿津賀志山上に晒したと書かれています。前日旧跡を訪ね「泪を落し」た基治の首級が晒されていた山を越える。
基治は、京から平泉に下る若き日の義経を助け、この坂を越えさせ、それから15年余りのち義経の首がこの坂を下り鎌倉まで送られるのを、逆臣泰衡の配下として見守ったはずです。石那坂の戦功により、頼朝から伊達郡を賜ったのは伊達家始祖の藤原朝宗で、伊達郡高館に居を構え伊達を名乗るようになります。峠を越えればもうすぐ伊達藩領です。
芭蕉は、このような複雑な感慨を胸に峠にかかったのだと思います。長坂とありますが実際の国見峠は、義経の笠掛け松から高低差100mに足らない難所とはいえない峠でした。距離も短く10分ほどで越えることができたでしょう…。元禄二年は「折々小雨降ル」天気でした。「今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也」と曽良の日記にあるように、国見峠を越え貝田を過ぎたあたりに仙台藩の越河番所が設けられていたものの天領との境ということもあってか、芭蕉たちは何ら心配していなかったようです。
「鐙摺、白石の城を過」と本文はなっていますが、曽良旅日記に「同晩、白石ニ宿ス。」とありますように、この日芭蕉は伊達藩の支藩である白石城下に泊まりました。
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