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2023年11月3日(旧暦九月二十日) 二見と蛙 元禄二年九月二十二日(1689年11月3日)

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九月二十二日芭蕉が江戸の杉風に書いた手紙の一部が切り取られ、文末部が軸装されて伝わっています。その末尾「蛤のふたみへ別行秋ぞ」のあとに 、詠まれた日は特定できませんが 「二見 硯かと拾ふやくぼき石の露 / 先如此 ( かくのごとく ) に候。以上 / 九月二十二日  ばせを」と 近作を記しています。蛤の句は「ふたみ に 」と直して大垣から伊勢神宮に向かう「おくのほそ道」末尾に収録されていますが、正式な参宮にはまず二見浦で潔斎するというしきたりを意識して二見を詠んだものと思います。 なお、芭蕉のこれら二見の句はいずれも西行に因んだものです。*  *西行の「今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを見あはせしとておほふなりける」や「『西行談抄』(寛文九年刊)に、西行が二見浦の草庵を結んだ折、『硯は、石のわざとにはあらで、もとより水入るる所などくぼみて硯のやうなる」ものを備えたとある。」等によります。また蛤の句は、西行「月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして」に拠ったと思える「 今朝こそは 開ても見つれ 玉匣(たまくしげ) ふたよりみより 淚流して」(金葉和歌集 律師實源)を踏まえています。 硯の句は、曽良が体調を崩して長島に戻る前日、十四日に「岩戸月夜見ノ森へ詣て」と日記にあり、おそらくの二見の「天の岩屋**」と外宮の「月夜見宮***」の事ですから、その日の詠であったかもしれません。 ** 左写真は二見浦の「天の岩屋」 文治二年(1186年)東大寺衆徒参詣記にあるという 「 おもしろく見ゆる二見の浦はかな岩戸のあけし昔ならねど 慶尊」の和歌が掲げられています。   *** 内宮の方は「月読宮」と表記します。 芭蕉はこの年二見の句をもう一句詠んでいます。「二見の図を拝み侍りて うたがふな潮の花も浦の春」(元禄三年四月刊「いつを昔」)で、元禄二年正月、前年末に仕上がってきた文台****の西行ゆかりの 二見夫婦岩と扇面の絵を詠んだものです。(実は前年末にも二見の句を詠んでいました。「皆拝め二見の七五三(しめ)をとしの暮」です。)そして芭蕉は、おくのほそ道の旅に出る前に愛用の文台裏に「ふたみ  うたかふなうしほの花も浦のはる   元禄二仲春 芭蕉」と書き記したのです。 **** 「文台」は俳諧の時執筆の前に置く懐紙を載せる台で、師から弟子に引き継がれていきます。この元禄二

2023年10月27日(旧暦九月十三日) 一栄に逢ふ 元禄二年九月十五日(1689年10月27日)

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  前日より「悪寒」を訴え、この日朝早く逗留していた島崎又玄味右衛門宅を発ち長島に戻ることになった曽良を、芭蕉と路通は途中まで見送りました。 (左写真は外宮の宮町に現存する旧御師丸岡宗太夫邸) 「十五日 卯ノ刻味右衛門宅ヲ立、翁路通中ノ郷迄被送」と曽良は日記に残しています。続けて「高野一栄道ニテ逢フ小幡ニ至テ朝飯ス」とあり、なんとあの出羽の国最上川の船問屋で、おくのほそ道の旅で彼の邸に3泊「五月雨を集めて」の歌仙を巻いた大石田の一栄*に遭遇したと書いています。  あまり驚いているようには感じられませんので、一栄が御遷宮に合わせて伊勢に来ていたことを知っていたのでしょう。とすれば、芭蕉が木因に書き送った「拙者門人供十人計り参詣」の一員に一栄もいたのです。一栄は曽良からの連絡に応じ、芭蕉を慕って遥々出羽の国からやってきたのかもしれません。このようなこともあり、 「 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。」と芭蕉をして書かしめたのです。 *7月15、16日の項ご覧ください。 なお、山寺から引き返した芭蕉と曽良を大石田入口で出迎えたのは五十四歳の一栄でした。今にも雨が降りそうな「重く垂れ下がった空を見上げながら、ずっとここで待ち続けていたようだ。この初老の俳人がどんなに芭蕉を待ち望んでいたか、その気持ちは芭蕉にも伝わったことだろう。」(金森敦子「『曽良旅日記』を読む」)